岩瀬忠震とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと相対し、「日米修好通商条約」の交渉を担った

岩瀬忠震いわせただなり

大河ドラマ『青天を衝け』では、川口覚さんが配役を務めます。

ドラマ内でも条約締結の一幕が登場。

天皇の意に背いた重い罪とだけ説明されているため、

「幕府がただただ、アメリカの言いなりになってしまった」

のようなイメージを、抱いた人も多いのではないでしょうか。

しかし、この岩瀬忠震、史実を辿れば、外国人の脅しに屈するような器の人物ではないことがわかります。

では、なぜ天皇の勅許を得ずに条約を結んでしまったのか?

この辺りも含め、忠震がどんな人物だったのか、その生涯に迫りましょう。
 

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岩瀬忠震はどんな人?

プロフィール
岩瀬忠震いわせただなり

岩瀬忠震
出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸・芝愛宕しばあたご下西久保(現・港区愛宕)
  • 生年月日:1818年12月18日
  • 死亡年月日:1861年8月16日(享年44歳)
  • 幕末期、日米修好通商条約の交渉にあたった幕臣。条約に日本の意向を反映させたほか、その采配で諸外国との無用な戦争を回避した。

 

岩瀬忠震 年表

年表

西暦(年齢)

1818年(1歳)旗本・設楽貞丈したらさだたけの三男として、江戸・芝愛宕しばあたご(現・港区愛宕)にて生まれる。

1840年(23歳)旗本・岩瀬忠正の婿養子となる。

1843年(26歳)昌平坂しょうへいざか学問所(幕府直轄の教育機関)へ入学。

1849年(32歳)徽典館きてんかん(昌平坂学問所の姉妹校)の学頭となり、甲府へ出仕。

1851年(34歳)昌平坂学問所の教授となる。

1854年(37歳)老中首座・阿部正弘に見初められ、海防掛目付となる。

1855年(38歳)ロシア使節プチャーチンとの交渉に尽力する。

1858年(41歳)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと交渉。日米修好通商条約に調印する。外国奉行となり、その他の諸外国との条約締結も担当。

1859年(42歳)大老・井伊直弼なおすけの「安政の大獄」により謹慎となる。

1861年(44歳)江戸向島の邸宅・岐雲園きうんえんにて病没。

 

幕府の教育機関で学頭を務めた秀才

1818年、岩瀬忠震は江戸・芝愛宕しばあたご(現・港区愛宕)にて生を受けます。

父は旗本の設楽貞丈したらさだたけ

三男だった忠震は設楽家の家督は継がず、23歳のころに同じ旗本の岩瀬家へ養子に出されることとなりました。

こうして、部屋住み(次期当主)の座を手に入れることに。

といっても、旗本の地位は、とても幕府内の要職に就けるようなものではありませんでした。

そんな出世の道を閉ざされた境遇にありながら、忠震はひたすら学問を突き詰めていくのです。

いや、幕府でろくに仕事を与えられなかったからこそ、学問に集中できたともいえるのかも。

26歳から幕府直轄の教育機関・昌平坂学問所昌平黌しょうへいこう)で学び始めた忠震は、みるみる優秀な成績を残し、

32歳のころには、甲府にある姉妹校・徽典館きてんかんへ学頭として赴任することに。

一年間の務めを終え、江戸へ戻ると昌平黌の教授となり、ここでも教頭まで上り詰めます。

ちなみに、忠震が昌平黌で師事した儒学者・古賀謹堂こがきんどうは教授の地位を用い、かなり熱心に海外の情報を集めていました。

謹堂は開国の重要性を説いており、のちに外交官を任される忠震の采配にも影響を与えたと考えられています。

 

「安政の改革」による出世

1853年にペリーが来航すると、幕府の海防への意識はいよいよ高まり、老中首座・阿部正弘によって「安政の改革」が行われます。

元来、幕府は家格によって要職にあたる人選を行ってきました。

しかし阿部は、優秀な人材であれば、身分の低い御家人でも積極的に登用するという、思い切った政策に出るのです。

この改革によって、忠震は海防掛目付かいぼうがかりめつけという職を与えられることとなります。

家格が関係ないとなれば、昌平黌でトップの成績を誇った忠震に声がかかるのは道理ですよね。

こうして幕府から役を与えられた忠震は、以下のような施設の開設に尽力。

講武所(武芸訓練機関)

長崎海軍伝習所(海軍技術の訓練所)

蕃書調所ばんしょしらべしょ(海外文献の翻訳、研究などを行う施設)

このほか、軍艦や砲台の設置を指揮したりもしました。

また、勘定奉行・川路聖謨かわじとしあきらが主導したロシア使節・プチャーチンとの交渉において、条約の締結が円滑にまとまったのは、忠震の助力によるところもあるといいます。

来航の折にロシアの船が座礁してしまい、下田で新しい船を作りたいと、プチャーチンが申し出てきた際、幕府はこの許可を出すことを渋りました。

これに対し忠震は

忠震
軍艦を作るわけじゃないんだから、いいじゃないですか

と、説得にあたったという話です。

 

日米修好通商条約の締結

岩瀬忠震が担当した一番の重大事といえば、1858年に行われた「日米修好通商条約」の調印です。

『青天を衝け』第8話では、祝砲と称して砲撃を放つアメリカ船の威嚇に、忠震と井上清直が屈する様子が描かれていました。

日本の開国といわれれば多くの人が抱くのは、このように

「幕府がアメリカの圧力に屈した」

という、弱腰なイメージ。

のちの明治政府が不平等条約改正に苦心した経緯から、そう捉えられてしまうことが多いのです。

しかし、忠震が行った交渉の実態を知ると、その印象は大きく変わってきます。

条約締結に向けての奮闘

米国総領事タウンゼント・ハリスが来日したのは1856年のこと。

そこから条約が締結されるまでの約2年、幕府は計13回以上の交渉を行いました。

アメリカ側が提示した条件に対し、忠震は少しでもおかしいと感じれば意見し、書類が真っ黒になるぐらいの訂正案を出したという話。

この様子にはハリスも感服し

「このような外交官を有している日本は幸せ者である」

と、評価しているほどです。

交渉の賜物として、条約の内容には日本側の意向に沿った部分もたくさんあります。

・日本国内において外国人が行動できるのは、開港地周辺の定められた範囲だけ

・開港するのは横浜、長崎、新潟、兵庫の4つに限る(当初は国内で11港の開港が申し出られていた)

どなど。

のちに問題となるのは、

関税を決めるのはアメリカ

・アメリカ人が日本で問題を起こした場合、アメリカ領事が裁判を行う(領事裁判権)

という部分ですが、これも当時の状況を思えば妥当な条件といえます。

これまで貿易をしてこなかった日本が適正な関税を判断することは難しく、この点をアメリカに任せるのは仕方がないことです。

また領事裁判権に関しても、海外事情に疎いこの時代の日本人が外国人を裁くのは無謀だといえます。

大名行列を横切ったイギリス人が斬り捨てられ、薩英戦争に発展した「生麦事件」のように、文化の違いから起こった事件もありますし…。

アメリカにいわせれば、

「日本の法律で裁くって言われても…ねえ?」

という感じです。

このように、日米修好通商条約は、当時としては最善の判断のもと結ばれました。

交渉にあたった忠震らは、脅しに屈するどころか、かなり果敢に抵抗していたのです。

交渉を行ったのが忠震でなかったら、日本はもっとひどい不平等条約を押し付けられていたかも…。

なぜ、勅許を得ずに条約を結んだのか?

日米修好通商条約の締結にあたり、もっとも問題視されたのは、幕府が勅許を得ずに条約を結んだことでした。

条約に反対していた攘夷じょうい派の面々は

「日本のトップは天皇なのに、幕府は勝手に何をやっているんだ!」

と、激怒しはじめるのですが、無勅許での条約締結も、事情を知ればやむを得ないことがわかります。

イギリスと清国のアヘン戦争が一段落したその時勢において、ハリスは

イギリスやフランスは、続いて日本へやってくるつもりです。

彼らは侵略を目的としていますが、私たちは貿易がしたいだけ。

今条約を結んでおけば、イギリスやフランスとの交渉においても、アメリカが仲立ちしますよ

と、条約の交渉を急かしました。

これを受けて、忠震は

忠震
日本を他国の植民地にしないために、すぐにでもアメリカと条約を結んでおく必要がある。勅許を交渉している時間などない

と判断したのです。

忠震がこのとき条約に調印していなければ、日本は他国との戦争を余儀なくされていたかもしれません。

もちろん、無勅許で条約を結べば罪に問われると、止めに入った幕臣もいました。

しかし忠震はこう言い放ち、その制止を振り切ったといいます。

忠震
僕は断然調印の儀を主張し、あえて一身の禍害を顧みざるなり

罰せられることは覚悟のうえ。

自身を犠牲にしてでも、すぐに条約を結ぶべきだと主張したのですね。

 

大老・井伊直弼との対立

1859年、岩瀬忠震は大老・井伊直弼が行った政策「安政の大獄」によって、謹慎の身となってしまいます。

安政の大獄では、日米修好通商条約の締結に反対した攘夷派が、主に弾圧の対象とされました。

これは、彼らが幕府の政権を脅かす危険があると見なされたからです。

では、幕府を非難したわけではない忠震が処分されたのはなぜか?

それは忠震と井伊が、条約締結後の方針が対立していたからです。

井伊は能力のない人ではありませんでしたが、幕府の伝統を重んじることに頑固な考えをもっていました。

そのため、条約締結は避けられなかったとして、締結後はまた鎖国に戻していく政策を画策していたのです。

対して、忠震の考えは

忠震
海外交流を通して国力を高め、西欧諸国による植民地支配の横行を正せる立場を目指す

というもの。

明治期に政府が取り組んだ近代化政策そのままなんですよね。

しかしこの時代にここまで先が読めていた人はほとんどおらず、その考えも井伊には

井伊
旗本風情が名門大名の意見を真っ向から否定するとは、無礼極まりない

と捉えられていました。

そして、第13代将軍・徳川家定の後継問題に際し、忠震が一橋慶喜を支持したことで、井伊との対立は表面化します。

忠震は、聡明な慶喜が将軍となれば、海外との交流も受け入れられるよう、幕府内に改革をもたらせると考えていました。

しかし前述のように、井伊が重んじているものは、改革よりも伝統。

井伊は大老の権限をもって、より宗家の血筋に近い、紀伊藩主・徳川慶福よしとみを将軍後継に選びます。

そして、改革を企てる忠震ら一橋派を、ことごとく弾圧していったのです。

謹慎を命じられて以来、忠震は体調を悪化させ、1861年、44歳にして病没します。

日本の未来のために奔走する、その志半ばで抑え込まれてしまった悔しさが、彼の生気を奪っていったのかもしれません。

大正時代に入って功績が見直され、正五位の位階を授かっていることがせめてもの救いでしょう。

 

きょうのまとめ

無益な戦争を避けるため、日本の国力を育てるため、

自身の身を顧みず、アメリカとの条約締結を断行した岩瀬忠震。

明治維新の陰に隠れたその功績には、見直すべきところがいくつもありました。

最後に今回のまとめです。

① 岩瀬忠震は、幕府の教育機関・昌平坂学問所にてトップクラスの成績を誇った秀才。阿部正弘の身分を問わない人材登用で、要職を任されることとなった。

② 日米修好通商条約の交渉を巡っては、米国総領事ハリスに果敢に意見を出し、日本側の意向をかなり反映した条件を勝ち取っている。無勅許で条約を結んだのは、西欧諸国との交渉に備え、アメリカをすぐにでも味方にしておく必要があったから。

③ 忠震は海外との交流を促し、国力を高めるため、次期将軍として一橋慶喜を支持した。しかし、改革より伝統を重んじる井伊直弼は、一橋派を弾圧。忠震も謹慎に処される。

なんといっても忠震が、日本が海外列強と肩を並べる未来を予想していたことに、ただただ脱帽させられます。

このあと時代は幕府を「無能だ、悪だ」と見定めていきますが、実際のところはかなりレベルの高い組織だったのですね。

 
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