映画「ラストエンペラー」の題材にもなった、
中国清王朝の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀。
即位して間もなく清王朝が終わってしまったため、清の皇帝だった期間はわずかでしたが、その後溥儀は、日本領だった満州国の皇帝にもなっています。
まるで中国と日本の板挟みのような立ち位置。
挙句の果てには第二次世界大戦の戦犯として捕まってしまうなど、浮き沈みの激しい生涯を送りました。
これは運命に翻弄されたとしかいえず、溥儀にはなんの落ち度もありません。
では、彼は一体どんな人物だったのでしょうか。
その激動の人生から、愛新覚羅溥儀の人物像に迫っていきましょう。
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愛新覚羅溥儀はどんな人?
- 出身地:清、北京
- 生年月日:1906年2月7日
- 死亡年月日:1969年10月17日(享年61歳)
- 中国清王朝の最後の皇帝。後に満州国皇帝を経て、第二次世界大戦後、戦犯として捕らえられるなど、激動の人生を送る。
愛新覚羅溥儀 年表
西暦(年齢)
1906年(1歳)第11代清朝皇帝・光緒帝の弟・愛新覚羅載灃の息子として北京に生まれる。
1907年(1歳)弟の愛新覚羅溥傑が生まれる。
1908年(2歳)第12代清朝皇帝に即位。宣統帝を名乗る。
1912年(6歳)辛亥革命により清王朝が終わりを迎える。このとき溥儀も皇帝を退位。
1917年(11歳)張勲により12日間だけ皇帝の座に復帰する。
1924年(18歳)クーデターが起こり、紫禁城を追い出されることに。
1925年(19歳)イギリス・オランダ公使館に助けを求めるも拒否され、最後は日本公使館に受け入れられる。
1931年(25歳)満州事変が起こり、日本から満州国の執政官への就任要請を受け、満州に移住。
1934年(28歳)満州国皇帝に即位。
1935年(29歳)初の外国訪問として来日する。
1940年(34歳)再度来日する。溥儀にとってはこれが最後の外国訪問となる。
1945年(39歳)第二次世界大戦終戦に伴い、満州国が崩壊。皇帝の座を退位し、日本へ亡命するも道半ばソ連に捕らえられる。
1950年(44歳)中国に移送され、撫順戦犯管理所に収容される。
1959年(53歳)釈放され、北京の植物園に勤務する。
1964年(58歳)満州族の代表として、中国の政治協商会議の全国委員に選出される。
1967年(61歳)腎臓がんによる尿毒症にて生涯の幕を降ろす。
満州国の建国へ
日本公使館に亡命することになった溥儀
1912年、辛亥革命によって300年近く続いた歴史に幕を降ろした清王朝。
その後も特別に、溥儀は皇帝の住居だった紫禁城にて生活を許されていました。
しかし1924年、クーデターが起こり紫禁城で暮らす権利を奪われてしまいます。
もちろん、国から保証されていた生活のためのお金も支給されないことに。
溥儀に残された道は、中国の一市民として生きていくか、他国に助けを求めるかしかなくなってしまったのです。
当時の溥儀はまだ18歳の少年でした。
外出を禁止されていたので、それまで紫禁城から出たこともなく、身の周りの世話もすべて家臣がしてくれていたのです。
自分のことも十分にできない溥儀にとって、一市民として生きていくなど、とても考えられない話。
溥儀は家庭教師をしていたスコットランド人のレジナルド・ジョンストンの勧めで、イギリス公使館に助けを求めることにしました。
しかし面倒事を嫌ったイギリス公使館はこれを拒否…そして紆余曲折を経て、日本公使館に受け入れられることになるのです。
国民党軍からの屈辱…「君主の姿で必ず戻る」と決意
日本公使館に受け入れられた溥儀は、日本租界区となっていた天津に住居を移し、暮らしていましたが、1928年、溥儀にとってとんでもない悲報が飛び込んできました。
なんと国民党軍の兵士によって、清王朝の皇族が眠る墓地を荒らされ、埋葬されていた金品が盗まれてしまったというのです。
権力を奪っただけでは事足りず、この期に及んでまだ見せしめをしようというのでしょうか…。
これを経て溥儀は「この恨みに報いなければ、愛新覚羅の子ではない」と清王朝の再興を強く決意するのでした。
溥儀が満州国の元首になることを引き受けたのは、その地位と日本軍の力を使って清王朝を再興することを目論んでいたからなのです。
一方日本軍は大陸への進出のために、溥儀の名前が必要でした。
両者の利害が一致して、満州国の建国へと発展していくわけです。
溥儀と日本の関係
親日家の溥儀
日本公使館が溥儀を受け入れたのは、日本が溥儀に対して好印象を抱いていたからでした。
関東大震災が起こった際、溥儀は妻の婉容と連名で日本へ義援金を送っているのです。
満州国の皇帝に即位したあかつきには、二度に渡って来日しています。
1935年の初来日の際には、昭和天皇と堅い握手を交わし、帰国するや否や国民に向けて「朕日本天皇陛下と誠心一体の如し」と詔書を発表しました。
国民に向かって大々的に親日の意を表していたのですね。
溥儀は満州国崩壊後、ソ連の捕虜になり、そして中国の撫順戦犯管理所に収容された後、最後は一市民として生涯を終えることになります。
死に際に彼が食べたがった食事は、なんと「日本のチキンラーメン」だったのです。
来日した際にどこかで振る舞われたのでしょうか?
溥儀はあっさりしたその味を大層気に入り、中国でも送ってもらって食べていたそうですよ。
満州国皇帝は名ばかりだった?
ここまでを見ていると、溥儀と日本の関係は決して悪いものではなかったように感じます。
しかし1946年に東京で行われた裁判に出廷した溥儀は「自分は日本の被害者だ」と証言しているのです。
溥儀がいうには、満州国皇帝というのは名ばかりで、自分には何の権限も与えられていなかったとのこと。
溥儀が満州国の皇帝になったのは、清王朝を再興するためです。
皇帝としての権限が与えられていなければ、それも夢のまた夢。
溥儀にとって満州国皇帝を務めた恩恵は何もなく、ただ日本の操り人形になっていただけということになります。
日本には都合よく利用され、中国からは戦犯扱い…これほどの苦難に苛まれながらも、釈放後は一市民として暮らしていった溥儀は、よほど強い精神力の持ち主だったのでしょうね。
一連を経て、終戦間際には溥儀の親日の感情など、もはやなくなっていたのだろうな…と思いきや、そうでもないと思える出来事もあります。
日本がソ連を侵攻しているとき、溥儀は満州国軍に日本軍を支援するよう指示しているのです。
それも、日本に操られての指示ではなく、溥儀自らの意志によるものだったといいます。
溥儀は罪に問われてこそ「自分は被害者だ」という言葉を述べましたが、国を追われた自分を救ってくれた日本への恩義も忘れてはいなかったのです。
恨みだけが残っていれば、きっとチキンラーメンも嫌いになっていたはずです。
溥儀と日本がもっと違う形で関わることができていたら…両者の間には、生涯の絆すら築けたのではないでしょうか。
きょうのまとめ
波乱万丈の人生を送りながらも、晩年は植物園の従業員として前向きに生き抜いた愛新覚羅溥儀。
彼は中国の歴史上の人物の中では、特に日本と密接な関わりを持っていました。
その関係はとても良好とはいえませんが、彼の存在がまた戦争がいかに愚かなことだったかを教えてくれています。
今回の内容を簡単にまとめると…
① 溥儀は満州国皇帝に即位し、ゆくゆくは清王朝を再興するつもりだった
② 溥儀は震災の義援金を日本に贈っていた。一方国を追われたときに救ってもらった恩義もあり、日本との関係は良好に思えた
③ 結局溥儀は満州国皇帝として、日本の中国侵攻に利用されただけだった
といったところでしょうか。
やはり、溥儀を主人公にすると日本の過ちが目立ってきますね。
こうやって歴史を振り返ってみると、日中友好の意義深さを感じさせられます。
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