『我が子を喰らうサトゥルヌス』『砂に埋もれる犬』など、
グロテスクで不気味な印象を与える『黒い絵』の作品群で特に有名なスペインの画家、
フランシスコ・デ・ゴヤ。
彼はスペイン王の宮廷画家を務めるほどの実力を持ちながら、
ナポレオンのスペイン侵攻やスペイン独立戦争の波に飲まれます。
さらに晩年は、自由主義者の弾圧から逃れるためにフランスへと渡り、
そこで生涯を閉じるなど、波乱に満ちた人生を送っています。
そんなフランシスコ・デ・ゴヤとは、一体どんな人物だったのでしょうか。
今回は、スペインが誇る偉大な画家の生涯に迫ります。
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フランシスコ・デ・ゴヤはどんな人?
- 出身地:スペイン フエンテデトドス(サラゴサ近郊)
- 生年月日:1746年
- 死亡年月日:1828年4月16日(享年82歳)
- スペイン人画家、版画家。宮廷画家としてベラスケスと並ぶスペイン最大の画家。
フランシスコ・デ・ゴヤ 年表
西暦(年齢)
1746年(0歳)スペインサラゴサ近郊の町、フエンテデトドスで生まれる。
1760年(14歳)この年から4年間、地元サラゴサの画家の下で絵画の修業を始める。
1770年(24歳)イタリアへ渡りフレスコ画の技法を身に着ける。
1773年(27歳)マドリードに移り住み、宮廷画家フランシスコ・バイユーの下で修業し、その妹と結婚する。
1775年(29歳)以後10年以上、王立タペストリー工場のためのタペストリーの下絵制作をする。
1786年(40歳)国王カルロス3世付きの画家となる。
1789年(43歳)新王カルロス4世の宮廷画家となる。
1792年(46歳)突然の病の影響で聴力を失う。
1801年(55歳)『カルロス4世とその家族』を制作。その後、着衣と裸体の『マハ』、版画の連作『ロス・カプリチョス』などを制作。
1808年(62歳)以後、6年に渡り続いたスペイン独立戦争のなか、『マドリード、1808年5月3日』などを制作。
1810年(64歳)版画集『戦争の惨禍』の制作を開始する。
1819年(73歳)マドリード郊外に別荘を購入する。「聾者の家」と呼ばれるこの別荘内を飾る14枚の壁画は、後に『黒い絵』と呼ばれるようになる。
1824年(78歳)自由主義者弾圧を避けるために、フランスのボルドーへ亡命する。
1826年(80歳)マドリードに一時帰国し、宮廷画家の辞職を正式に認められる。
1828年(82歳)亡命先のボルドーで死去。
フランシスコ・デ・ゴヤの生涯
ここからは早速、フランシスコ・デ・ゴヤの人生を一緒に旅していきましょう。
長い下積み時代
1746年、スペイン北東部にあるサラゴサ近郊の町、フエンデトドスで生まれた
フランシスコ・デ・ゴヤ。
彼の父親はメッキ職人で、ゴヤは芸術に理解ある環境で育ちました。
14歳になると地元の画家に弟子入りし、そこで4年間画家になるための修業を始めます。
その後、マドリード中心部にあるサン・フェルナンド王立アカデミーに2度作品を出展しますが、
いずれも落選。
より優れた画家を目指し、ゴヤはイタリアに渡ります。
そこでルネサンス時代の数々の傑作を目の当たりにした彼は、
フレスコ画の技法を学び、精進を重ねました。
スペインに帰国後は、サラゴサ時代の兄弟子、バイユーの妹と結婚し、
彼の手引きでマドリードに移り住みます。
そして三十路を目前にした1775年から、
王立タペストリー工場で製作するタペストリーの下絵を担当します。
宮廷画家とスペインの動乱
転機が訪れたのは、彼が40歳を迎えたときでした。
十数年に渡り携わっていた王立タペストリー工場での下絵の数々が、
時の国王カルロス3世に認められたのです。
こうしてフランシスコ・デ・ゴヤは、
晴れてカルロス3世と新国王カルロス4世付きの宮廷画家に昇進しました。
宮廷画家となったゴヤの有名な作品の一つに、『カルロス4世とその家族』があります。
一見豪華な衣装を身にまとった華やかな王族の集団肖像画ですが、
ゴヤはこの絵の中に当時の王室の腐敗した状態を暗喩的に表現しています。
例えば、この絵の中央に描かれているのはカルロス4世の妻で王妃のマリア・ルイサですが、
彼女を中央に描くことで、当時国王よりも力を持ち実際に権力を掌握していたことを示しています。
そして画面左、暗がりの中で大きなカンヴァスに向かっている男性はゴヤ自身ですが、
華やかな国王一家を後ろから眺め肖像画を描こうとしている構図は、
王家の退廃的な実状を暗に示していると考えられるのです。
実際に王家はその後、カルロス4世とその嫡男フェルナンド7世が対立。
1808年には、そこへフランスから各地へ侵攻を続けていたナポレオンが参入し、2人を幽閉。
代わりに自分の兄を王位に就けたことで、それら一連の様子にスペイン国内で反発の声が上がり、
民衆のマドリードでの蜂起を皮切りに、スペイン独立戦争が勃発します。
ゴヤはこの動乱の様子を『マドリード、1808年5月3日』などの作品に生々しく表しました。
一方で彼自身はこの動乱のなかを、画家としての地位を保持するために身の置き所を賢く判断し、
うまく切り抜けています。
『黒い絵』と亡命
1819年、73歳になっていたゴヤは宮廷画家を引退し、マドリード郊外に購入した
「聾者の家」と呼ばれる別荘に移り住みます。
そこでこの家の装飾を目的として描かれた14点の作品群が、
後に『黒い絵』と呼ばれることになる絵画です。
ゴヤが抱いている狂気や恐怖、不穏な人類の未来像など、
憂鬱な内面が前面に押し出されているこれらの作品は、全体的に黒や暗い色彩で描かれ、
観ている者の不安を煽る様な絵が多いため、総称して「黒い絵」と呼ばれるようになりました。
その後、スペイン国内が自由主義弾圧の波に飲まれるようになると、
ゴヤはその弾圧を避けるために、1824年にフランスへ移り住みます。
そして一度は故郷に戻りますが、1828年、亡命先のフランス、ボルドーで82歳の生涯を終えます。
フランシスコ・デ・ゴヤにまつわるエピソード
ここでは、フランシスコ・デ・ゴヤに関する豆知識をご紹介していきます。
耳が聞こえなかった!?
長い下積み時代を経て、確かな実力を携え、宮廷画家にまで上り詰めたフランシスコ・デ・ゴヤ。
しかし彼は宮廷画家になって間もなく、これからだというときに、
突然の病が原因で聴力を完全に失ってしまいます。
はっきりとした病名は不明ですが、原因は高血圧にあるようです。
ちなみに、彼が後にマドリード郊外に購入した「聾者の家」は、
以前の所有者が聾者だったためにそう呼ばれていましたが、
ゴヤは自分も聾者だったことで、この家の名前を気に入っていました。
不気味さに表れた偉大さ
宮廷画家となり、スペインを代表する画家となったフランシスコ・デ・ゴヤ。
現代まで続く彼の評価を特に上げたのは、『黒い絵』シリーズでした。
ぱっと見ただけでは、怖い、不気味、グロテスク、暗いなどの印象が強く、
人物の表情などもあまり美しいとは言えません。
しかし、ゴヤの内面がニュアンスとして表されたこれらの作品は、
従来の理性を重視した合理主義に反し、
個人の主観や独創性に重きを置いた新しい芸術作品の風潮として、
ロマン派などの後の近代美術の画家たちに強い影響をもたらすことになったのです。
きょうのまとめ
今回は、ベラスケスと並ぶスペインの偉大な宮廷画家、
フランシスコ・デ・ゴヤについて、その生涯をご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、フランシスコ・デ・ゴヤとはどんな人物だったのか簡単にまとめます。
① 18~19世紀にかけスペインで活躍した画家、版画家、宮廷画家。
② ナポレオン侵攻、スペイン独立戦争の時代を生き、『マドリード、5月3日』『黒い絵』シリーズなどの代表作を生み出した。
③ 個人の主観や独創性に基づき、暗喩を用いて描く手法は、ロマン派など後の近代芸術家たちに大きな影響を与えた。
フランシスコ・デ・ゴヤの代表的な作品は、
スペイン王家の数々の作品コレクションと共にプラド美術館に所蔵されています。
スペインに訪れる機会があった際は、ぜひオリジナルを味わってみて下さい。
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