ポルト。
ポルトガルを代表する港町であり、観光都市です。
大西洋とドゥエロ川沿いに、赤レンガ・色とりどりの壁の建物がいっぱいびっしりと立ちならんでおります。
まるで中世にタイムスリップしたようなとても美しい街並み。
そして、この町の公園に気品高く立ち、南に向かってスッと指差すのはだれ?
エンリケ航海王子像です。
ポルトガルを代表する大航海時代へと切り開いた世界史上の有名人。
そんな彼と、この素敵な町との深いゆかりについて確かめてみましょう。
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エンリケ航海王子とポルトのゆかり4つ
<ポルト>
① エンリケ航海王子が生まれた
1394年、エンリケ航海王子はこのポルトで生まれました。
お父さんはポルトガル国王ジョアン1世。
お母さんはイングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘。
エンリケ航海王子は五番目の子ども、三男です。
今、ポルトの町にはエンリケ航海王子が生まれたという家があります。
ただ、本当にこの家で生まれたかどうかはまだわかっておりません。
② セウタ遠征の下準備をおこなった
ここポルトはエンリケ航海王子がセウタ征服の準備をした土地でもあります。
セウタとはジブラルタル海峡のアフリカ側にある町です。
<セウタ>
そして、ジブラルタル海峡とはスペインやポルトガルのあるイベリア半島とアフリカ大陸に挟まれた最短わずか14kmの海峡。
セウタは当時、イスラム勢力によって支配されておりました。
エンリケ航海王子たちから見れば、セウタを征服することは「キリスト教への解放」です。
しかも、周りによい漁場がありますし、アフリカからの金の貿易場として盛んでした。
さらに奥深くの地への征服の足掛かりにもなりますしね。
エンリケ航海王子はポルトにおいて人々を「セウタ征服」に熱狂させることに成功します。
「みんな一人一人がセウタ解放のためにできることをやろう」
として、市民は兵隊のために肉を我慢。
替わりにホルモン肉ばかり食べていたので、今でもポルト市民は“ホルモン肉を食べる人”と呼ばれております。
国を挙げての大出征は1日でセウタを落とす大戦果。
しかし、あてにしていた金の流通はよそに流れ、かえってセウタ維持の負担が重くのしかかってきます。
エンリケ航海王子たちの思いは“さらなる海へ”向いていったのでしょうか。
彼が西アフリカ探検を積極的に計画してゆくのはこれからです。
③ ポルトガル王国が生まれた
そもそも、ポルトガル王国が生まれたのがこのあたり。
ポルトゥカーレと呼ばれた地域です。
1129年カスティーリャ(今のイベリア半島に栄えた国)から独立しました。
④ ウィンザー条約が結ばれた
エンリケ航海王子のお父さんジョアン1世の時代です。
ポルトガルはおとなりの大国カスティーリャと激しく戦いあっておりました。
そこで、ジョアン1世はイギリスを仲間に引き入れようとします。
イギリスの王子ランカスター公の娘フィリッパと結婚。
こうして締結された同盟がウィンザー条約です。
ちなみに、この同盟は600年以上経った今でもなお有効となっております。
今世界中にある同盟の中でもっとも古いものです。
そして、ジョアン1世とフィリッパの間に生まれたたくさんの子どもたちのうちの一人がエンリケ航海王子です。
エンリケ航海王子像はどこに向かって指さしているのか
エンリケ航海王子像の立っている公園は「王子の家」のすぐそばにあります。
この像は1894年、エンリケ航海王王子の生誕500年を記念して建てられました。
にしても、エンリケ航海王子像はなぜ南に向かって指さしているのでしょう。
もうおわかりでしょうか。
その目指しているのは彼が探検をプロデュースしたアフリカです。
彼は当時「生きて帰れない」とされた“暗黒の海”へと乗り出し(本人は探検に同乗していませんが)、ヨーロッパでは誰にも知られていなかった土地を切り開いてゆきました。
さあ間もなく、ポルトガルに朝日が上ろうとしています。
大航海時代の幕開けです。
きょうのまとめ
① ポルトはエンリケ航海王子が生まれた町である
② ポルトはエンリケ航海王子、さらには彼の属したポルトガル王国ととてもゆかり深い地である
③ ポルトにあるエンリケ航海王子像が指さしているのは彼が探検をプロデュースしたアフリカである
ポルトはすばらしいですが、セウタも歴史の由緒正しくとても美しい港町です。
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