後宮。
皇帝が囲う女性たちの宮殿を言います。
そんなとても閉ざされた空間で行われていた人間模様。
明の領土を最も広げた永楽帝の妻たちはどんな人たちで、どんな運命をたどったのでしょうか。
そして、明で行われていたお妃制度とはいったいどんなものだったのでしょうか。
そんな秘密のベールの向こうをちょっとのぞいてみましょう。
永楽帝の妻たち
徐皇后
朱元璋の明建国でともに戦い、活躍した名将徐達の娘です。
朱元璋は明建国後、それまでともに戦った家来たちを警戒してそのほとんどを殺しました。
徐達はそんな災難から逃れられた数少ない人間の一人です(朱元璋による毒殺説もあります)。
徐皇后は幼いころから読書好き。
「学者」と呼ばれるほどのかしこさで、朱元璋はそのうわさを聞き、永楽帝の奥さんにしました。
しかし、靖難の変(1399~1402年。建文帝と永楽帝の間で起こった国内戦争)が起こると大変です。
徐皇后の弟徐輝祖は敵側指揮官として参戦。
当時、こうした親族・知り合い同士で敵味方に分かれてしまった人たちはほかにもたくさんいたでしょう。
徐輝祖は永楽帝軍を苦しめ、戦争決着まで戦い抜きます。
永楽帝はこんな徐輝祖のふてぶてしいやりざまにかなりご機嫌ななめ。
徐皇后は永楽帝に徐輝祖の命だけは助かるようお願いすると、どうにか聞き届けられることとなりました。
またこの一連の戦争中の徐皇后にはほかにもこんな際立ったエピソードがあります。
北京で敵軍に攻め立てられていた徐皇后。
相手は大軍、なのに、居残る味方は将軍も兵もわずか。
そんな絶体絶命になんと、徐皇后は戦争に出はらった兵の妻たちを集め、武装して戦ったと言われます。
さすがは名将の娘ですね。
いや、勇ましいだけではありません。
徐皇后はとてもつつましい性格。
自分たちの一族を特別に引き立ててもらうようなことは絶対にしませんでした。
中国の王朝では外戚と呼ばれるものが勢力を持ち、政治をムチャクチャにしてしまうことがしばしばあります。
外戚とは皇帝の奥さんの一族です。
明王朝はこの外戚による害がとても少ないです。
実はその大きなきっかけとなったと言われるのが徐皇后。
明王朝の後宮の女性たちは徐皇后のやり方をマネして、自分から一族を押し立てないようになりました。
明が長持ちした大きな秘訣です。
権賢妃(けんけんひ)
朝鮮出身です。
とても美しく、永楽帝にはものすごく愛され、モンゴル遠征にも連れて行ったほどです。
しかし、彼女が亡くなると、大変なことが起こりました。
権賢妃の女官が同じ朝鮮出身である妃、呂氏の女官とケンカを起こしました。
その時、権賢妃の女官はこう言い張ります。
「お前の主が私の主を毒殺した」
これを受けて呂氏は拷問を受け、自白。
怒った永楽帝は後宮のたくさんの人々を処刑してしまいます。
後宮というのは華やかな一面がありますが、いろいろと厳しいです。
やはり、永楽帝が亡くなった時はたくさんの女性が殉死を強要されました。
この時代、“秀女選び(後宮に入る女性を選びにやってくること)”と聞けば、国民は大騒ぎ。
女性は後宮にいったん入ったが最後、親族とはよほどのことがないかぎりもう会えません。
宮廷の秘密が外に一切漏れないよう、お医者さんにもかかれません。
明時代の秀女選び
後宮に入る女性といえば、どちらかといえば良家の令嬢などを思い浮かべるかもしれません。
しかし、明時代は少し様子がちがいます。
というのも庶民の女性を率先して選ぶようにしておりました。
その理由は外戚が力を持つリスクを少なくなるするためです。
ちなみに、オスマントルコの場合は奴隷を率先してお妃にしました。
オスマントルコは奴隷を政権の重要部に引き立てる特殊な国です。
明王朝の宦官
明王朝は外戚をおさえ込むのにはほかにないほど成功しました。
が、宦官(大事な部分を切り取った男性役人)の害はほかの王朝にないほどひどいものでした。
宦官が皇帝になろうとしたり、秘密警察を使ってやりたい放題したり、……。
実はもともと明建国の朱元璋は
「宦官に力を持たせないように」
していたんです。
しかし、その前例を破ってしまったのが永楽帝。
永楽帝は甥建文帝を武力で倒して皇帝に即位しましたので、役人たちの間であまり受けがよくありませんでした。
そのため、仕方なく宦官を引き立てて力になってもらうことにしました。
南海遠征の鄭和も宦官ですしね。
きょうのまとめ
① 徐皇后はとてもつつましい女性で、自分の一族が重用されることを拒否した
② 権賢妃の毒殺疑惑により、後宮の人々が大量粛清された
③ 明王朝は外戚をおさえこむのにはかつてない成功を挙げたが、宦官はかつてないほど害悪をもたらした
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