中国とその周辺諸国との間でくりかえされてきた歴史をわたしたちはどれだけ知っているでしょうか。
明の永楽帝の時代はその中でも特に対外的に積極的でした。
北方には長年敵対してきたモンゴルがおります。
さらに見渡せば、東南アジア、朝鮮、琉球、日本が。
その時、明はどのような行動をとったのでしょうか。
タップでお好きな項目へ:目次
北方異民族の恐ろしさ
永楽帝時代、明最大の宿敵はモンゴルです。
洪武帝(朱元璋)が北へと大きく打ち払いましたが、その絶え間なく広いモンゴル高原に彼らは逃げ散り、そこで勢力を蓄えます。
これはこの地を本拠とする勢力の伝統的手段です。
敵の弱いところを見つけて容赦なく突き、強いところにはプライドも何もなく逃げ散ります。
しかし、中華勢力にとったらこれがやっかいなのです。
なぜ、万里の長城を築いたのかが伝わってきませんか。
北方異民族の戦い方
ちょうど永楽帝のころ、モンゴルはタタール部とオイラート部に分かれて対立しておりました。
タタール部は永楽帝からの使者を殺害。
永楽帝はこれに怒り、10万の兵を差し向けます。
しかし、深追いしすぎて大敗。
見事にモンゴル高原勢力のお家芸にはまってしまいました(彼らはたくみに逃げまわりながら、相手陣系がくずれたり、わなにはまるのを待っています)。
永楽帝とモンゴルの戦い
これに対し、永楽帝はついに親征を決意します。
皇帝みずから現地に指揮を執るのです。
総勢50万。
永楽帝は皇帝即位する前から対モンゴル戦では何度も戦果を挙げております。
見事、敵の本拠地をたたき、タタール部は弱体化。
しかし、今度はオイラート部がこれをチャンスと強くなってきました。
永楽帝はオイラート部にも出兵。
かろうじて勝利しました(※)。
(※)このように複数の敵を同時に相手にするのではなく、分断し、ひとつずつきっちりつたおしてゆくやり方を“各個撃破”といいます。
いろんな国々の視点
永楽帝のモンゴル遠征は計5回。
ただ例のごとく、モンゴル勢はいざとなると高原深くへ逃げてしまうので戦果としてはいまいちです。
このための戦費もバカになりません。
ただ、放っておくと強くなるし、領内を荒らされてしまいます。
今の中国の異民族に向ける視点、異民族からの中国の視点、私たちはそれをどの程度意識出来ているでしょうか。
遠交近攻
ここまでモンゴル高原国家のお家芸を見てきましたが、次は中国です。
遠交近攻という言葉を知っておりますか。
遠くの国と仲良くし、近くの国を攻める、というやり方です。
唐は百済を攻める時、新羅と結びました。
漢は匈奴を攻める時、月氏や鮮卑と結ぼうとしました。
このころ北ベトナムを支配していたのは胡氏です。
胡氏は南ベトナムのチャンパ王国に攻め込みます。
すると、チャンパ王国は明の永楽帝に助けを求めます。
こうして永楽帝は大遠征軍を派遣するのですね。
中華軍だけでやるよりも、遠くにいる味方と挟み撃ちすれば当然戦いやすいです。
朝貢外交
また、中華大陸というのは日本やヨーロッパとちがい、平地がとても広いです。
そのため、どうしたって強大な統一勢力ができやすいです。
すると、おのずから中華を中心にした“中華思想”というものができあがりやすくなります。
永楽帝は琉球や李氏朝鮮、だけでなく鄭和の南海遠征で東南アジアから遠くインド、東アフリカの各地にまで朝貢関係を結ばせるのに努力しました。
朝貢関係は実質はともかく、形式的にでも
「彼らの国々は中華の皇帝の偉大さに打たれて貢ぎ物をしている」
つまり、みんな中華の子分になっている、ということです。
ちょうどこのころ、日本では足利義満が永楽帝によって「大日本国王」に任命され、勘合貿易をやっておりましたね。
きょうのまとめ
以上に見てきたように、視点というのは自分たちだけでなく無数に存在します。
たとえば、ニュースなんかでも、あの事件はアメリカ側から見れば、中国側から見れば、ドイツ側から見れば、どうなのだろう、といろんな視点になってみるとより意義深いです。
それに歴史や時事は地理と密接に結びついておりますので、ぜひぜひ連携してみることをお勧めします。
① 永楽帝はモンゴル打倒に5回遠征をおこない、そこそこの成果を上げた
② 永楽帝はベトナムへの大規模遠征もおこなった
③ 永楽帝は鄭和の南海遠征などにより諸外国に朝貢関係を求めた
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」
コメントを残す