1398年、中国全土に荒れ狂った戦乱を収めた一代のカリスマが亡くなりました。
明初代皇帝朱元璋。
皮肉にも、それは新たな戦いの幕開けでした。
永楽帝vs建文帝。
同じ血を受け継ぐ者として、真の中華皇帝として立つのはどっち?
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朱元璋の後継ぎ候補
明洪武帝朱元璋の後継ぎは長男の朱標と決まっておりました。
しかし、朱標は早くに亡くなってしまいます。
朱元璋が次の皇帝候補に目を付けたのは四男の朱棣(後の永楽帝)です。
幼いころから並外れて優秀。
モンゴルとの戦いで指揮を取り、なみなみならぬ武功を重ねております。
しかし、家臣らは反対します。
「長男の子がよい」
という儒教的理由から朱標の子建文帝が選ばれることになりました。
建文帝の政治
朱元璋の死後、建文帝は順当にその跡を継ぎます。
朱元璋といえば、厳しい政治。
ですがその逆に、建文帝は儒教精神に基づいた優しいものです。
●拷問をやめる
●税を軽くする
●宦官を重用しない
など。
建文帝による一族追い落とし
その一方で、建文帝が厳しい目を光らせたのが、各地の王たちです。
つまり、朱元璋の子どもたち。
朱元璋は明建国に一緒に頑張ってくれた家来たちのほとんどを殺してしまいました。
そのかわりに、自分の一族をとても大事にします。
そのため、王たちは強い勢力を与えられておりました。
建文帝は彼らをおそれ、追い落としにかかります。
周王・斉王・代王・湘王・岷王と次々庶民に落とし、あるいは左遷し、あるいは自殺に追い込みました。
建文帝の最大のねらいは優秀な燕王朱棣。
そんな朱棣が何を思ってか建文帝のいる都金陵(今の南京)にやって来ました。
家来は言います。
「燕王を捕まえてしまいましょう」
この時、建文帝は
「私の親類が謀反をくわだてるはずがない」
と言って、そのまま無事に返してしまいました。
燕王決起
しかし、これで建文帝によるプレッシャーが終わったわけではありません。
朱棣は罪を当てつけられ、軍は燕の都北平(今の北京)から移動を命じられます。
そして、政府軍が北平に集まります。
この時、朱棣はなおも、
「国民の心は建文帝に向いているのではないか」
とためらいます。
が、参謀の道衍は、
「私は天の運命を知っています。国民の心などかまうものですか!」
と、まくしたてます。
ついに、朱棣はこの策を入れ、表向き、
「君側の奸(※)をのぞき、皇帝家の難を靖んじる」
(※)皇帝のそば仕えのずるがしこい人
として決起。
「靖難の変」の始まりです。
建文帝向かい立つ
兵の数や物量では政府軍が圧倒。
しかし、朱棣軍の強みはモンゴル相手に何度も戦いきたえてきた
●優秀な家臣・兵たち
それにくらべると、政府軍は先代朱元璋が有能な家来のほとんどを殺してしまっております。
建文帝は朱元璋以来残る数少ない名将耿炳文に兵30万人をたくし、北に向かわせることにしました。
その出陣にあたり、建文帝はこう漏らしました。
「叔父殺しの汚名だけは避けたい」
靖難の変の結末
耿炳文と朱棣の間に激闘が繰り広げられます。
しかし、建文帝はこれを敗戦とみなし、怒ります。
耿炳文をクビ。
これを知った朱棣は
「耿炳文がいなければ勝ったも同然だ」
と喜びます。
後を任されたのがなんと文官の李景隆。
政府軍の人材不足とまずい采配は深刻です。
その後、両陣営は泥沼の抗争を3年。
何度も絶体絶命のピンチにさらされながらも、朱棣は晴れて金陵入り。
建文帝は焼け落ちる宮殿の中に果てました。
永楽帝即位と建文帝生存伝説
1402年、朱棣は明朝の皇帝に即位し、永楽帝と名乗ります。
積極的な対外政策で明の強さを内外に見せつけ、その勢力をいよいよ広げてゆきます。
一方、あの戦乱で亡くなったとされている建文帝。
実は、何とか生き延びて、という話が中国の西南地方を中心に根強く残されております。
きょうのまとめ
目を覆いたくなるほどの激しい政権争い。
ただやはり建文帝の根強い人気はほかにも垣間見られます。
あの道衍が永楽帝のもとで見事出世して故郷に帰ってくると、親族をふくめただれもが道衍を相手にしません。
ついには姉に、
「和尚(※)は道を誤った」
(※道衍はお坊さんです)
とののしられ、道衍はあえなく故郷を後にしました。
① 永楽帝は建文帝の王追い落とし策によって追い込まれ、ついに「靖難の変」を決起した
② 兵力では圧倒する建文帝軍だが、人材不足とまずい采配などによりついには永楽帝に敗北した
③ 「靖難の変」に敗れた建文帝だが、優しい政治で国民には人気があり、各地にその生存伝説が残っている
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