700年代、奈良時代を生きた道鏡は、一介の僧侶でありながら当時の上皇に取り入り、朝廷での地位を築き上げていった、史上稀に見る策士です。
彼は一番調子のいいときになると、仏教の最高指導者である法王の座を手に入れるまで出世してみせました。
そしてあろうことか、皇室の人間も差し置いて、自ら天皇の座に就こうとしたことも…。
これを「道鏡事件」といい、ただの坊さんが皇室を乗っ取ろうとした前代未聞の事件として、後世に取り沙汰されることになったのです。
道鏡はいかにしてその地位を手に入れようとしたのか?
今回はその真相に迫っていきましょう。
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ただの僧侶が皇位を乗っ取ろうとした?道鏡事件とは
一般人だけど…孝謙上皇をメロメロにした道鏡
道鏡がそもそもどういう人だったかというと、弓削氏という弓の制作を行っていた一族の生まれで、皇族とは何も関係のない一介の僧侶でした。
しかし彼は僧侶として非常に優秀だったため、あるときから宮内の仏殿でのお勤めを任され、朝廷に出入りするようになります。
そんな折…761年のこと、淳仁天皇に皇位を譲り、隠居していた孝謙上皇が体調を崩し、その看病に道鏡があたることになりました。
このころは医学がまだ発展しておらず、何か病気になると神だの仏だのという力で治そうとするきらいがあったため、いわば僧侶は医師のようなものだったのです。
そしてこのとき上皇が患っていたのは精神的な病だったため、道鏡の看病も功を奏し、これをきっかけにふたりは恋仲になります。
寂しい思いをしていた孝謙上皇
弱っているところを看病して恋愛に発展するというのはよくあるパターンですが、このとき上皇が患っていた精神病というのはいわゆる「寂しい」という気持ちからくるもの。
構ってほしいタイミングで道鏡に優しくされ、上皇はホロっといってしまったのです。
彼女が病気になったのは、以前は懇意にしてくれていた朝廷の幹部・藤原仲麻呂が、淳仁天皇が即位するやいなや彼ばかりに肩入れしだし、上皇とは疎遠になってしまったことにありました。
そもそも仲麻呂が孝謙上皇と懇意にしていたのは自らが権限を握るためで、淳仁天皇にその座が移れば、上皇はもう用済みということです。
おまけに彼女には生涯独身でなければいけない決まりがあり、そのことも孤独に拍車をかけていました。
女性の天皇が結婚すると、次の皇位はその結婚相手の家系に継がれることになり、紀元前から続いてきた皇族の血を絶やすことになります。
そのため天皇になった女性が結婚をすることは、日本史上常にタブーなのです。
要するに上皇は懇意にしてくれていた部下が急に冷たくなり、おまけに独身という寂しい境遇もあって心労を患い、優しく看病してくれた道鏡に一気にメロメロになってしまったということですね。
天皇に返り咲く上皇・地位を確立していく道鏡
こうして病気から回復した上皇は、764年には藤原仲麻呂を討ち、淳仁天皇からその座を剥奪すると、自らが称徳天皇として皇位に返り咲きます。
この称徳天皇が天皇の座に戻るまでの立ち直りを支えた立役者として、道鏡も太政大臣・法王など、どんどん高い地位を与えられていきました。
この様子を目にした朝廷の者たちは
「まさか道鏡を次の天皇にするつもりじゃないよな…?」
と、疑念を深めていきます。
このとき道鏡が与えられていた法王の称号は仏教の最高指導者。
宗教が力をもっていた奈良時代においては天皇にも負けず劣らずの地位ということもあり、周囲は「まったくの部外者が法王なんて…」と、皇室の乗っ取りを疑う者も少なくなかったのです。
偽の神託で天皇に!?
769年のこと、「道鏡を天皇にするつもりじゃ…」という周囲の予想が的中します。
これが噂の「道鏡事件」。
大宰府の祭事を司る主神・中臣習宜阿曾麻呂と、大宰府の長官を務める道鏡の弟・浄人が朝廷を訪れ、宇佐八幡宮より神託を預かってきたと、こんなことを言い出したのです。
「道鏡を天皇にすれば天下に泰平が訪れる」
これを聞くと道鏡にメロメロな称徳天皇は大喜びしますが、浄人が道鏡の弟ということもあり、周囲の者は
「それ、本物なの?」
と、疑いの目を向けます。
まあ…これで道鏡が天皇になれば、いくらなんでもトントン拍子すぎますからね。
こういわれた称徳天皇はならば確かめに行こうと、特に信用のおける人物だった和気清麻呂を宇佐八幡宮へ遣いに出します。
すると清麻呂が持って帰ってきた神託はまったく別の
「日本は皇室の者以外を天皇にすることはないよ」
…という内容だったのです。
これを聞いた称徳天皇は激怒し、清麻呂の名を「別部穢麻呂」と改名して島流しに、何故かその姉の広虫も「別部広虫売」と改めさせられます。
…姉弟だから同罪ってことでしょうか?
それにしても穢麻呂って…子どもの悪口じゃないんだから…。
どっちが偽の神託だったのか
結局、これに関しては道鏡と清麻呂のどちらが正しかったのかは未だにわかっていません。
あるいは道鏡も嘘をついていたけど、清麻呂も「さすがに道鏡が天皇はないでしょ…」と嘘をついた可能性もあります。
どのみち称徳天皇は何が正しいのかわからなくなり、この話は保留に。
そして770年に彼女が没したことで道鏡もその地位を失い、ついに天皇になることはなかったのです。
きょうのまとめ
道鏡事件と聞くと、つい「坊さんが天皇をたぶらかしたうえに、嘘をついて自分が天皇になろうとしたやつでしょ」と、道鏡を悪者にしてしまいがちです。
しかし史実を辿ってみると、天皇が道鏡に入れ込んだのは本当に彼が優しかったからかもしれませんし、道鏡が嘘をついていたのかもはっきりしません。
もしや…そこまで何かを企んでいたわけではなかったのかも?
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 藤原仲麻呂に邪険にされて落ち込んでいた称徳天皇を道鏡が立ち直らせた
② 称徳天皇のお気に入りになった道鏡はその力で仏教の最高指導者・法王の座まで上り詰めた
③ 「道鏡は偽の神託で天皇になろうとした」とされているが、どちらが偽りだったかは定かではない
まあ、道鏡が悪者だったかどうかは別として、「ただの坊さんが天皇になりかけたのは史上稀に見る珍事件」ということに変わりはありませんね。
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