伝統にとらわれず、新たな技法によって印象的な曲を世に送り出し、
現代音楽の祖とも言われている、
ドビュッシー。
『子供の領分』『亜麻色の髪の乙女』など、
彼の作品はどこか懐かしさを誘うような抒情的なものが多く、
現代でも多くの人々に愛されています。
ドビュッシーとは一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はフランスが生んだ作曲家の生涯に迫ります。
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ドビュッシーはどんな人?
- 出身地:フランス サン・ジェルマン=アン・レー
- 生年月日:1862年
- 死亡年月日:1918年3月25日(享年55歳)
- 19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したフランス人の作曲家。印象主義音楽の創始者。
ドビュッシー 年表
西暦(年齢)
1862年(0歳)8月22日、パリ郊外にある町サン・ジェルマン=アン・レーに誕生。
1872年(10歳)10月、パリ音楽院に入学。以後、12年間在籍する。
1875年(13歳)ピアノコンクールで一等賞を獲得する。
1876年(14歳)パリ音楽院、ラヴィニャックのソルフェージュ科で一等のメダルを獲得する。
1877年(15歳)同音楽院、マルモンテルのピアノ上級クラスで二等賞を獲得する。
1880年(18歳)同音楽院、ピアノ伴奏クラスで一等賞を獲得。その後、作曲法クラスに入る。音楽界に繋がりのある人物たちの伴走者として交流を持ち、音楽的知識や文学、一般教養に至るまで様々な知識を吸収していく。
1882年(20歳)歌曲『星の輝く夜』を初の出版作品として出版。 作曲法のクラスで二等賞を獲得。
1883年(21歳)カンタータ『闘牛士』でローマ第二大賞第一席、翌年にカンタータ『放蕩息子』でローマ大賞を獲得。
1885年(23歳)ローマのヴィラ・メディチで2年間の留学生活を送る。
1888年(26歳)カンタータ『選ばれた乙女』完成。ドイツのバイロイトを訪れる。
1889年(27歳)パリ万国博覧会でインドネシアのガムラン音楽を耳にし、感銘を受ける。翌年、『ボードレールの5つの詩』を出版。
1894年(32歳)『牧神の午後への前奏曲』完成。
1899年(37歳)『夜想曲』完成。2年後に『夜想曲』全曲の初演を迎える。
1902年(40歳)『ペレアスとメリザンド』パリ・オペラ歌劇場で初演。
1903年(41歳)『版画』出版。レジオン・ドヌール五等勲章を受章。翌年、『喜びの島』完成。
1905年(43歳)『海』初演。『映像第一巻』の完成。2年後、『映像第二巻』の作曲に着手。
1908年(46歳)初めての指揮に挑戦する。『子供の領分』完成。翌年、パリ音楽院上級評議会の委員に就任する。
1910年(48歳)『前奏曲集第一巻』完成。翌年、『聖セバスティアンの殉教』初演。
1913年(51歳)『遊戯』初演。『前奏曲集第二巻』完成。
1915年(53歳)がんの手術を受ける。『6つのソナタ』の構想、作曲開始。
1917年(54歳)『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』完成。
1918年(55歳)3月25日、直腸がんにより死去。
ドビュッシーの生涯
ここからは早速、ドビュッシーの生涯について彼の功績を交えながら見ていきましょう。
順風満帆な少年時代
1862年8月22日、フランスのパリ郊外にある町、
サン・ジェルマン=アン・レーに生まれたドビュッシー。
幼い頃にピアノの手ほどきを受け音楽的な才能を覗かせていた彼は、
なんと10歳で伝統あるパリ音楽院に入学を許可されます。
パリ音楽院に在籍中のドビュッシーは、
学内のピアノコンクールなどで数々の優秀な成績を残し、
作曲法についても学び始めると、10代の頃から既に作曲を始めていました。
伴奏者として優秀だったドビュッシーは、
学生時代には様々な音楽関係者や団体の伴奏者となり、
彼らとの交流によって音楽的教養だけでなく、文学や一般教養に至るまで、
あらゆる知識を吸収していきました。
新たな表現との出会い
ドビュッシーが作曲家として頭角を現したのは、
彼が20歳の頃。
初の出版作となる、歌曲『星の輝く夜』を出版し、
パリ音楽院の作曲法のクラスでも優秀な成績を修めました。
そしてその2年後、フランスの作曲家にとっての登竜門と言えるコンクールの一つで、
作曲したカンタータ『放蕩息子』がローマ大賞を受賞します。
<放浪息子>
この受賞によりフランス政府から奨学金付与の留学の権利が与えられると、
翌年からローマで2年間の留学生活を送りました。
その後パリへと戻ったドビュッシーは、
この頃から印象派の芸術家や詩人たちと交流を持つようになります。
そして1889年、ドビュッシーが27歳のときに開かれたパリ万博で、
インドネシアのガムラン音楽を初めて耳にした彼は、
西洋の古典音楽とは全く異なる自由な形式や響きの美しさに強い衝撃を受けます。
ヨーロッパでは、ワーグナーなどの伝統に則った音楽がまだまだ主流だった時代。
絵画などの部門では、モネやルノワールなどの画家たちによって、
印象主義という新たな技法が盛んに使われていましたが、
それを音楽に取り入れたのはドビュッシーが最初と言われています。
印象主義音楽の創始者
それまでの西洋古典音楽の主な特徴と言えば、
「ダイナミックで劇的な場面転換や感情表現」といったものでした。
一方、ドビュッシーが取り入れた印象主義音楽の特徴は、
「光と影が常に変化するような繊細で自然な効果を表現し、緻密でいて豊かな響きに重点を置いた」
ものです。
印象派の芸術家達と交流を持ち、パリ万博で衝撃を受けたドビュッシーはその後、
反ワーグナーを志向するようになり、
印象主義音楽の創始者として様々な曲を世に送り出していきます。
印象主義音楽の特徴が詰まった彼の最初の作品が、
『牧神の午後への前奏曲』です。
ドビュッシーが用いた印象主義の技法はその後、
世界中の作曲家たちに影響を与えるようになり、
今日まで愛される様々な音楽の根底に根付いています。
<牧神の午後への前奏曲>
ドビュッシーにまつわるエピソード
ここではドビュッシーに関する代表的なエピソードをご紹介します。
厄介な問題児!?
優秀な成績を多く残したパリ音楽院での学生時代。
そんなドビュッシーでしたが、実は当時から伝統音楽に対しての反発心が強く、
伝統音楽が主流だった当時の音楽院での彼は、
扱いづらい問題児だったようです。
女性の敵!?
風景画のように優しく美しい曲を多く遺したドビュッシー。
しかしそれらの作品作りと同時進行で、
裏では幾つものドロドロな女性問題を巻き起こしていました。
学生時代の人妻との不倫から始まり、同棲する恋人がいながら浮気をしたり、
元恋人を自殺未遂に追い込んだり、結婚しても人妻と不倫をしたり。
最終的に別の女性と再婚しますが、その奔放な性格はまさに女性の敵でした。
きょうのまとめ
今回は、フランスの作曲家ドビュッシーの生涯をご紹介していきました。
いかがでしたか。
最後に、ドビュッシーとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀後半~20世紀前半にかけて活躍したフランス人の作曲家
② 伝統的な音楽にとらわれず、印象派の技法を音楽に取り入れた印象主義音楽の創始者
③ ジャズやポップスなど、その後に続く20世紀以降の世界中の音楽に大きな影響を与えた
抒情的でありながら、感情を主張し過ぎないドビュッシーの作品は、
初期の頃は豊かで鮮やかな表現なのに対し、
晩年になるとより洗練され渋さを増したような表現になっていきます。
あなたの心に響くのは、どんな作品でしょうか。
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