18世紀に活躍したイギリスの哲学者、
デイヴィッド・ヒューム。
ジョン・ロックらに続いて英語圏での「経験論」を代表する人物となった彼は、歴史学者でもあり、政治哲学者でもありました。
数々の著作を遺し、現代まで続く哲学思想の基礎を築き、偉大な哲学者の一人に数えられています。
デイヴィッドヒュームとは、一体どんな人物だったのでしょうか。
今回は彼の生涯について、その功績と共に一緒に見ていきましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
デイヴィッドヒュームはどんな人?
- 出身地:イギリス スコットランドのエディンバラ
- 生年月日:1711年4月26日(現在の暦では5月7日)
- 死亡年月日:1776年8月25日(享年65歳)
- 英語圏における「経験論」の哲学者。歴史学者、政治哲学者。
デイヴィッドヒューム 年表
西暦(年齢)
1711年(0歳)ユリウス暦4月26日、スコットランドのエディンバラで誕生。
1723年(12歳)エディンバラ大学に入学。法学を学ぶ。
1729年(18歳)精神を患い同大学を退学。独学で哲学と文学を学ぶ。後に砂糖を扱う店に就職するも退職。
1734年(23歳)フランスの田舎で執筆業に専念。
1739年(29歳)哲学書『人間本性論』を発表。
1742年(31歳)『道徳政治論集』を発表。
1748年(37歳)『人間知性の探求』を発表。
1751年(40歳)『道徳原理の探求』を発表。
1752年(41歳)『政治論集』を発表。エディンバラの図書館司書に任命される。
1757年(46歳)『宗教の自然史』を発表。
1763年(52歳)イギリスの駐仏大使の私設秘書となる。
1766年(55歳)ロンドンで国務次官となる。
1769年(58歳)エディンバラに戻り隠居生活を開始。
1776年(65歳)『わが生涯』を執筆後、8月25日死去。
デイヴィッドヒュームの生涯
ここからは早速、デイヴィッドヒュームの主な功績や生涯についてご紹介していきます。
そもそも「経験論」とは
デイヴィッドヒュームの思想を理解するうえで押さえておきたいのが、「経験論」という言葉。
この言葉は、ルネサンス時代に出現した哲学における2大学派の内の一つ、「経験主義」の考えに基づいた主張です。
哲学の分野では長い間、現実を解釈するという人間の知性や知識はどこにあるのか議論されてきました。
デイヴィッドヒュームが代表格の一人となった経験主義派は、
「知識は経験を通してのみ身につくものであって、決して生まれながらに備わっているものではない」
という主張を持っていました。
つまり、彼を含めた経験主義の哲学者たちはその思想の根底に、
「先天的な知識などない!」
という考えを持っていることになります。
ちなみに、もう一つの学派である「合理主義」では、
「現実を解釈するために、人間には生まれながらにして一定の普遍的知識が備わっている」
という主張を持っていて、当時のヨーロッパでは広くこちらの考えが主流でした。
デイヴィッドヒュームの考える「知識」
経験論のなかでも、デイヴィッドヒュームは「知識」について、さらに深く科学的に考察しました。
そして、知識には2つの種類があることを主張します。
それが「印象」と「観念」です。
以下に2つの違いについて簡単にまとめてみます。
・観念 → 印象から引き出される考えなど、知覚を通さない抽象的なもの
そしてデイヴィッドヒュームは、「観念」を補うものとして「想像」を挙げています。
彼によれば、想像力によって生まれるものが人ぞれぞれ異なるように、同じ経験をしても身につく知識は人によって異なります。
同じ花を見ても、受ける印象、引き出される観念によって、その花をどういうものと認識するかは違ってくるのです。
さらに、「花は美しいもの」という認識は人間の観念が想像と共に作り上げた知識であり、本来花と美には何の因果関係も存在しないと彼は言います。
デイヴィッドヒュームの唱えたこの経験論は「認識論」と結びつき、彼の功績は後の心理学の分野にも深く影響を与えていくことになりました。
常識破りの厄介者
経験論を根底に掲げ、数々の著作を世に出していったデイヴィッドヒューム。
しかし彼の考えは、キリスト教的考えが根差していた当時の社会では常識破りの斬新なものであり、賛否両論の意見が飛び交います。
なかでも宗教関係者からは強く非難され、彼は2度も大学教授になる道を妨害された挙句、遂にはその夢が叶うことなく生涯を終えたのです。
それでも彼の思想を支持する人々も多く存在し、政治や外交面ではその主要人物の補佐役を務めたり、図書館長を任されることもありました。
個人的な教師として、自身の思想を教えていた時期もあります。
また、彼が遺した哲学書以外の『英国史』や政治経済の著作に関しては、生前から高い評価を受けていました。
デイヴィッドヒュームにまつわるエピソード
ここでは、デイヴィッドヒュームに関するエピソードを2つご紹介します。
家族の期待
旧暦1711年4月26日。イギリスのエディンバラで一家の次男として誕生します。
しかしその2年後に彼の父親が亡くなると、兄姉と共に母親の手ひとつで育てられました。
生前弁護士の仕事をしていた父親に習って、デイヴィッドヒュームはその跡を継ぐことを期待され、大学では法学を学びます。
しかし、法学よりも哲学や文学に目覚めた彼は学位を取得せずに退学。
以降独学で思考の探求を続けるも、熱中するあまりノイローゼのような状態になり、心身共に不安定な状態になってしまいます。
結局彼は、その生涯で文筆業の道を選ぶことになりますが、そこに行き着くまでの約4か月を、商人の下で健康と生計の立て直しのために働きました。
ルソーとの因縁
50代の頃、フランス大使の秘書となったことで、啓蒙思想家たちと交流を持つことになったデイヴィッドヒューム。
彼はそこで多くの人々と良好な関係を築くことに成功しますが、それには彼自身の善良な人柄が関係していました。
しかしその善良さが仇となり、ある事件も引き起こしています。
それがルソーとの仲違いです。
当時フランス政府から追求されていたルソーを、自身がイギリスに帰国する際に同伴し亡命の手助けをします。
そして親切心から面倒を見てあげましたが、被害妄想の強かったルソーにはその好意すらも疑いの材料となったのです。
両者は周囲の人々を巻き込むほどの酷い仲違いの末、縁を切ることになってしまいました。
きょうのまとめ
今回はイギリスを代表する「経験論」の哲学者の一人であるデイヴィッドヒュームについて、その主な生涯と功績をご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
「経験論」とは何か、そして彼の成した功績がどのようなものだったのか、新たな発見はありましたか。
最後に、デイヴィッドヒュームとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 18世紀を代表するイギリスの哲学者で、歴史学者、政治哲学者でもある。
② 英語圏における「経験論」を代表する人物で、著作を多く遺している。
③ 彼の思想は当時なかなか受け入れられなかったが、後の思想家や心理学にも多大な影響を与えることになった。
当サイトには、他にもデイヴィッドヒュームにまつわる記事があります。
合わせてご覧いただくと、より彼の人物像とその思想が見えてくるはずです。
ご興味を持たれた方は、お時間のあるときにでもぜひ覗いてみて下さい。
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」
コメントを残す