ウィンストン・チャーチルとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

第二次世界大戦時に首相を務め、他のヨーロッパ諸国がヒトラーの手に落ちていくなか、

たった一人で自国の命運を握り、守り抜いたイギリス人がいました。

彼の名は、ウィンストン・チャーチル

残した名演説の数々からは、国民を鼓舞しナチスに対する徹底的な対抗を示す、

確固たる意志を感じ取ることができます。

しかし、後に「偉大なイギリス人の一人」に選ばれる彼の人生は、

決して平坦なものではありませんでした。

一体、ウィンストン・チャーチルとはどんな人物だったのでしょうか。

今回はその生涯に迫ります。

 

ウィンストン・チャーチルはどんな人?

プロフィール
ウィンストン・チャーチル

出典:Wikipedia

  • 出身地:イギリス オックスフォード郊外のブレナム宮殿
  • 生年月日:1874年11月30日
  • 死亡年月日:1965年1月24日(享年90歳)
  • 従軍記者。軍人。作家。政治家。第二次世界大戦時にヒトラーから英国を救った首相。

 

ウィンストン・チャーチル 年表

年表

西暦(年齢)

1874年(0歳)第七代マールバラ公三男の父と、米国の投資家の娘である母の元、ブレナム宮殿で長男として誕生。

1882年(8歳)アスコットの寄宿学校に入学。

1888年(13歳)パブリックスクールの名門、寄宿制のハロー校に入学。

1893年(18歳)3度目の受験で陸軍士官学校騎兵科に合格。後に好成績を修め卒業する。

1895年(20歳)軽騎兵第4連隊に配属される。11月、キューバに渡航。スペイン軍と行動を共にし、実戦経験を得る。

1899年(25歳)陸軍を退官後、下院の補欠選挙に立候補するも敗北する。第二次ボーア戦争の従軍記者として南アフリカへ向かうが、現地で捕虜として捕らえられる。

1900年(26歳)捕虜収容所からの脱獄劇で知名度を上げ、帰国後総選挙に出馬。当選を果たし庶民院議員となる。

1908年(33歳)当時史上2番目の若さで商務長官を務める。

1910年(35歳)2月、内務大臣に就任。翌年10月には海軍大臣に任命される。

1915年(40歳)第一次世界大戦の最中、トルコ西部の「ガリポリ上陸作戦」を決行するが失敗。失脚し、辞職する。

1917年(42歳)軍需大臣として再び入閣する。戦後は陸軍大臣と空軍大臣を兼任し、反ソ干渉戦争を主導。

1921年(46歳)植民大臣への転任を命じられ、中東とアイルランドの和平問題に着手。

1924年(49歳)かつて父が得た最高の地位である、大蔵大臣に任命される。「金本位制復帰」に取り組む。

1926年(51歳)5月、炭鉱夫組合がチャーチルを非難し、ストライキを起こす。英国の公共交通機関が完全停止し、そこから徐々に党内でも孤立するようになる。

1929年(55歳)「嫌われ者」という悪評が付けられ、以後10年閣僚職に就くことができなくなる。その間にファシズムが台頭する。

1940年(65歳)ファシズムに対し、早くから警鐘を鳴らし続けていたことで、再び国に必要とされるようになり、首相に就任。

1945年(70歳)第二次世界大戦でイギリスを指揮し、勝利に導いた。

1946年(71歳)首相退任後、国際的な活動を続けるなか、訪米中に「鉄のカーテン」演説を行い、冷戦期の幕開けとなる。

1951年(76歳)保守党を率いて再び勝利し、第二次内閣を形成する。

1953年(78歳)著書『第二次世界大戦回顧録』でノーベル文学賞を受賞。

1955年(80歳)首相の座を後進に譲り、引退。たびたび心臓発作に襲われるようになる。

1965年(90歳)1月24日、父が70年前に他界したのと同じ日に死去。

 

英首相ウィンストン・チャーチルの舞台裏

現在、世界の経営者が最も尊敬するリーダーの1位に選ばれているという、

ウィンストン・チャーチル。

生涯において様々な苦難や失敗、挫折を経験し、

それらを乗り越え強くあり続けるその姿に影響を受ける人は多くいます。

第二次世界大戦の最中65歳で首相になり、国の命運をその手に握ったチャーチルは、

ヒトラーが提案する和平交渉には決して応じず、ナチスと徹底抗戦し、

遂にはイギリスを勝利に導いたのです。

戦況がどれほどイギリスにとって不利な状況に追い込まれているときでも、

チャーチルには常にどこか「余裕」を感じさせるところがありました。

それは、これまでの人生で経験してきたこと全てを受け入れ自身に馴染ませたような、

悟りにも近い人間性が創り出す余裕。

それにプラスしてチャーチルは、自ら余裕を演出していたようなところがあります。

それらの例を以下に挙げてみます。

身に着ける物

チャーチルは、ヒトラー率いるナチスとの戦いでイギリスが空襲の被害に遭い、

市民たちに自ら励ましの声をかけて回ったときや、

大勢の人の前に姿を現すときなど、自身の姿が市民の目に触れるときはいつも、

帽子に葉巻、そしてステッキというスタイルを貫いていました。

どんなに悲惨な戦況が続くときでも変わらぬ首相の姿に国民は安心を抱き、

イギリスはまだ負けてはいない、と感じさせたのです。

たしなむ物

チャーチルは首相になってから、毎日のように激務に追われ忙しい日々を送っていましたが、

昼間からシャンパンを飲んだり、1日に10本の高級葉巻を吸ったり、

夜にはウイスキーやブランデーを飲むといった生活を続けました。

その様子はメディアを通して国民や、敵のヒトラーの目にも届きました。

国民の不安を和らげ、敵に対してもまさに余裕を見せつけていますね。

実はこの頃、チャーチルはたびたび心臓発作を起こしていましたが、

それでもこのスタイルを変えることはありませんでした。

発する言葉

チャーチルは現在でも語られるような数多くの有名な演説を残しています。

それもそのはず、実は演説に挑むときには何度も推敲や添削を重ねて慎重に言葉を選び、

実際に話す練習をして、強弱や間合い、視線の動かし方に至るまで入念に準備されていました。

人々の心を掴み動かした数々の演説の背景には、

実際には細かく計算し尽くされた配慮と努力があったのです。

 

関連記事 >>>> 「イギリスを救った不屈の首相 ウィンストン・チャーチルの演説」

 

ウィンストン・チャーチルの様々な顔

ここでは、チャーチルの政治家として以外の顔をご紹介していきます。

落ちこぼれの不良で嫌われていた

少年の頃のチャーチルは勉強ができず成績はほとんど最下位、

運動も得意ではなく他の子供たちとも上手く遊べない子供でした。

おまけに政治家だった父や、戦場に憧れるプライドの高い少年で、

いじめの対象や、教師たちからも体罰の対象になっていました。

この好戦的な姿勢は大人になってからも変わらず、

第二次世界大戦が始まるまでは、厄介な嫌われ者として有名でした。

文才に恵まれる

子供の頃から勉強ができなかったチャーチルでしたが、

文才には恵まれていてこの頃から詩を書いていました。

そして士官学校を卒業後、現地での争いの様子を記録する従軍記者としての活動で

その才能を伸ばし、生涯で30冊以上もの本を書いています。

なかでも晩年に書いた『第二次世界大戦回顧録』では、ノーベル文学賞を受賞しています。

画家でもあった

第一次世界大戦が勃発するなか「ガリポリ上陸作戦」で大失敗したチャーチルは、

40歳のときに政界の辞職に追い込まれました。

このときから精神安定のために自宅で絵画を始めると、画家としての才能が開花し、

後にイギリスの権威あるロイヤルアカデミーで、自身の作品の展覧会を開くほどになるのです。

 

きょうのまとめ

今回は、英国をヒトラーから救った首相、ウィンストン・チャーチルをご紹介しました。

ウィンストン・チャーチルとはどんな人物だったのか?簡単にまとめると

① 第二次世界大戦時に英国の首相を務め、ヒトラーと徹底抗戦し、英国を勝利に導いた。

② 若い頃から様々な挫折や失敗を繰り返し、嫌われ者の時期があった遅咲きの成功者。

③ 軍人、従軍記者、作家、画家など政治家以外にも様々な顔を持っていた。

90年という長い生涯を、ほぼ止まることなく走り続けたチャーチルには、

ここでご紹介しきれなかったエピソードが他にもたくさんあります。

ご興味を持たれた方は、ぜひ調べてみて下さい。

今もなお多くの人から尊敬される理由が見えてくるはずです。

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

3 − 3 =