広い面積を征服した世界史上のトップ3とはだれだと思いますか。
ではまず第3位から。
●ティムール
ティムール王朝の初代皇帝。
中央アジア、西アジア、南アジアにとても広い帝国を一代で築き上げました。
続いて第2位。
●アレクサンドロス大王
マケドニア王国の君主。
アテネやテーベ・スパルタなど名だたるギリシャのポリスを全部支配下に。
さらにライバルである世界帝国アケメネス朝ペルシャをたおしてもなお、その征服欲はつきませんでした。
最終的にその領土はギリシャ、エジプト、西アジア、中央アジア、南アジア、にまたがるとてつもない広さに。
そして、第1位が
●チンギスハン
です。
世界の帝王になるほどの男の人生っていったいどんなものだったのでしょうね。
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チンギスハンはどんな人
- 出身地:モンゴルのヘンティー山脈
- 生年月日:1162年5月31日
- 死亡年月日:1227年8月25日(享年65才)
- モンゴル帝国のハン(大王)。史上もっとも広い領土を征服した。
チンギスハンの年表
1162年(0才)チンギスハン生まれる
1171年(9才)父イェスゲイ急死
1200年(38才)ジャムカを破る。タタルを倒す。
1203年(41才)オン・ハンのケレイト部を壊滅させる
1205年(43才)ナイマンとメルキトを破り、モンゴル統一
1209年(47才)天山ウイグル王国が服属
1215年(53才)金の首都燕京を落とす
1218年(56才)西遼を滅ぼす
1220年(58才)ホラズム朝の君主ムハンマドが逃亡先のカスピ海の小島で亡くなる
1226年(64才)西夏を事実上滅ぼす
1227年(65才)チンギスハン亡くなる
チンギスハンの生い立ち
チンギスハンはモンゴルの有力な部族長イェスゲイの長男です。
しかし、チンギス9才の時イェスゲイは急死してしまいます。
すると、これまでイェスゲイの言うことを聞いていたいろんな部族が好き勝手を始めます。
こうして、チンギスはタイチウト部族に捕らえられます。
しかし、何とか逃れると、次第に成長したチンギスは族長としての力を発揮してゆきます。
当時、モンゴル高原には様々な部族がおりました。
チンギスは、ひとつ、またひとつ、とライバルを打ちたおしてゆきます。
モンゴル統一
モンゴル高原でチンギスの特に大きな敵となったのがジャムカとオン・ハンです。
ジャムカは若いころの盟友。
しかし、たがいに覇者を目指す者同士の運命でしょうか。
ついに決戦をせねばならなくなります。
1200年チンギスはタイチウトとジャムカの連合軍を撃破。
さあ、最後に残った大いなる敵がケレイト部のオン・ハンです。
チンギスはこれも破り、1205年にはついに全モンゴル統一を達成します。
蒼き狼チンギスハン
1206年チンギスはハン(カン)に即位。
その後も万里の長城を越えて金へ。
シルクロードの砂漠を越えて西夏、西遼、ホラズムへ。
と、次々侵略し、自分の領土に加えてゆきました。
そのはてなき欲望のままに世界中をかけめぐる様はまさにモンゴルの部族に語り継がれる「蒼き狼(※あおきおおかみ)」そのものです。
(※)モンゴル族は「蒼き狼」の子孫だという言い伝えがあります。
世界最強のビッグパパ
ちなみにチンギスハンには手に入れた領土の広さだけでなく、もうひとつとんでもない世界一の記録があるといいます。
その記録とはわりと最近になって発見されたものです。
というのも今の世界に一番たくさんの子孫を残している歴史的有名人は彼だというのです。
その人数を聞いて驚かないでください。
なんと、1600万人。
3200万人なんていう説もあります。
なにせ、チンギスハンは征服の先々の女性に自分の子どもを産ませ、しかもその子たちも同じようにしてたくさん子どもを作ったので、とんでもない数にまでふくれあがったのです。
おそるべし、世界最強ビッグパパ、チンギスハン。
なお、これらの数字データはDNA鑑定から予想されているものです。
きょうのまとめ
どこまでも青く広いモンゴル高原。
そこからとてつもない男がおどり出てきました。
チンギスハンの征服のやり方は歯向かう者にはどこまでも厳しく。
町の人間は皆殺しにされます。
そのかわり、言うことを聞く者には心広く。
ものすごく広い範囲で人々がわりと自由で安全に行き来できるようになりました。
彼の造り上げた帝国はいい面も悪い面もとても個性が強いです。
なので、調べれば調べるほどいろんな発見があります。
① チンギスハンは世界史上一番広い面積を征服した人間である
② チンギスハンはおさないころ、お父さんを亡くし、大変な苦労の中から世界のハンへと成り上がった
③ チンギスハンは世界で一番子孫の多い歴史的有名人だといわれている
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