チャールズ・ダーウィンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

生物の進化に関する理論を唱え、『種の起源』の著者としても

世界中にその名を轟かせることになった19世紀の博物学者、

チャールズ・ダーウィン

彼が唱えた理論は、現在でも進化生物学における基盤となっています。

チャールズ・ダーウィンとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は、その生涯について簡単にまとめてみました。

 

チャールズ・ダーウィンはどんな人?

プロフィール
チャールズ・ダーウィン

チャールズ・ダーウィン
出典:Wikipedia

  • 出身地:イングランド シュルーズベリー
  • 生年月日:1809年2月12日
  • 死亡年月日:1882年4月19日(享年73歳)
  • イギリス人の自然科学者、地質学者、生物学者。生物進化論を提唱した『種の起源』の著者。

 

チャールズ・ダーウィン 年表

年表

西暦(年齢)

1809年(0歳)イングランド南西部に位置するシュルーズベリーで、次男として6人兄弟の5番目に生まれる。

1819年(10歳)寄宿制のパブリック・スクールに入学。

1823年(14歳)兄と共に化学実験室をつくる。

1825年(16歳)狩猟に熱中し、成績不振で父親に学校を退学させられる。その後、医学を学ぶためエディンバラ大学に入学する。

1828年(19歳)エディンバラ大学中退。翌年、父親の勧めで牧師の勉強をするためにケンブリッジ大学に入学。

1832年(23歳)空き時間で行っていた研究の延長で、大学卒業後、英国海軍の測量船『ビーグル号』で世界一周の航海に出る。

1836年(27歳)ガラパゴス諸島に到着。翌年、約5年の航海を経てイギリスに帰国。

1839年(30歳)『ビーグル号航海記』を出版。

1842年(33歳)この年に初めて進化論の原案を書く。

1844年(35歳)『火山島についての地質観察』を出版。

1846年(37歳)『南米の地質』を出版。フジツボに興味を持ち、その研究に以後8年取り組む。

1851年(42歳)『フジツボ類の研究』を出版。3年後、第2巻を出版。

1856年(47歳)自然淘汰説の草稿執筆開始。2年後、同じ理論を唱えたアルフレッド・ラッセル・ウォレスから論文が届く。

1859年(50歳)『種の起源』を出版。

1871年(62歳)『人間の由来と性選択』を出版。翌年、『人間および動物の表情』を出版。

1875年(66歳)『食虫動物』を出版。翌年、自伝の執筆を開始する。

1877年(68歳)『同一種の植物における花の異型』を出版。ケンブリッジ大学の名誉学位を受ける。

1880年(71歳)『植物における運動能力』を出版。翌年、『ミミズの作用による土壌の形成』を出版。

1882年(73歳)心臓発作により死去。遺体はウェストミンスター寺院に埋葬される。

 

チャールズ・ダーウィンの生涯

チャールズ・ダーウィンの生涯をみていきましょう。

学校の勉強よりも・・・

イングランド南西部の町、シュルーズベリーで生まれた

チャールズ・ダーウィン。

6人兄弟の次男として育った彼は、幼少期から博物学的な趣味を持つ少年でした。

10歳になる頃には寄宿制の学校に入りましたが、

16歳になると狩猟に夢中になるあまり、学校での成績がどんどん落ち、

最終的には父親によって学校を退学させられてしまいます。

その後は医者だった父親によって医者になることを勧められ、

エディンバラ大学に入学しますが、その後に中退。

このように、少年時代のチャールズ・ダーウィンは、

学校での勉強よりも、自然化学など実際に身近にある物事を観察し、

疑問を抱いて考えたり実験することが大好きだったのです。

20歳を迎える頃にはそんな息子のことを見かね、またまた父親によって、

今度は牧師になってはどうかと勧められます。

自然科学的なものに強い興味のあった彼は、牧師になる気などありませんでした。

しかし、牧師になるための大学に入れば、空いた時間で自分の好きな自然観察や

実験をすることは十分に可能だ、と気づきます。

こうして、牧師になるために勉強をするという建前のもと、

彼はケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入学しました。

しかしこれは、後にチャールズ・ダーウィンの名を世に轟かせることになる、

最初の一歩となったのです。

世界を巡る航海

そのきっかけとなったのは、ケンブリッジ大学の学生時代に

植物学者ヘンズローと出会ったことでした。

ダーウィンはヘンズローとの交流を通して新たに植物採集に目覚めます。

ヘンズローにも気に入られていた彼は、大学の単位も順調にとり無事に卒業後、

「ビーグル号」の航海に同行しないか、と誘われます。

「ビーグル号」は当時イギリス海軍が保有していた測量船で、

南アメリカ大陸を調査することになっていました。

もっといろいろな植物のことを知りたいと思っていたダーウィンは、

もちろんヘンズローに同行するつもりでした。

しかしそこで壁になったのは、それまで散々迷惑をかけていた父親でした。

息子を牧師にさせるため大学に入れたつもりだった父親は、

何かと理由をつけては息子の船旅を猛反対しました。

しかし最終的にダーウィンは叔父の助けを借りてなんとか父を説得し、

無事にビーグル号に乗船します。

その後、5年にもわたる航海とそこでの調査をもとに後に誕生したのが、

ダーウィンの代表的な著書『種の起源』です。

生物の進化論

『種の起源』でダーウィンが述べていることを簡単に説明すると、

「地球上には多様な生物という種が存在し、それらは絶えず生存闘争を続け、

進化し続けるものだけが生き延びることができる。」

というものです。

現代に生きる私達からすると、ん?当たり前じゃないの?と思うかもしれません。

しかしダーウィンが生きていた19世紀という時代では、

まだまだキリスト教の影響が強く、生物は全て神による創造物で変化などしない、

なかでも人間は特別な存在だ、という考え方が主流だったのです。

そんな、世の中の当たり前、を打ち破ったのがダーウィンの『種の起源』でした。

発表当初は当然のように批判が殺到していたこの進化論ですが、

現代ではこちらの方が当たり前のこととして広く世に浸透しています。

進化論によって世界に衝撃を与えたダーウィンは、その後も生物に関する研究を続け、

様々な本を出版していきました。

 

チャールズ・ダーウィンにまつわるエピソード

チャールズ・ダーウィンの家族との関係にまつわるエピソードを2つご紹介します。

子宝に恵まれ子煩悩だった

ビーグル号で5年に及ぶ航海を終えて帰国したダーウィンは、

30歳のときにいとこのエマ・ウェッジウッドと結婚します。

その後10人もの子宝に恵まれますが、そのうちの3人を幼い頃に亡くしています。

それでも子供たちにとって愛情深い父親で、夫婦仲もいい温かい家庭を築きました。

父との関係

幼少期から昆虫や小動物に鉱物収集など、

勉強はそっちのけで自然と戯れるのが大好きだったダーウィンは、

医者として成功していた父にとって常に悩みの種でした。

9歳の頃に母親が病死すると、父の厳格さがさらに強まり、

ダーウィンは落ちこぼれとしてレッテルを張られてしまいます。

しかし息子の進路を何かと心配し、彼が科学者として徐々にキャリアを積む中、

その資金援助を惜しまず提供したりなど、

ダーウィンは父の厳しさのなかにも愛情を感じていました。

 

きょうのまとめ

今回は、19世紀を代表するイギリス人博物学者、

チャールズ・ダーウィンについて、その生涯を簡単にご紹介しました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、チャールズ・ダーウィンとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 『種の起源』によって生物の進化論を唱え、従来のキリスト教の教えを科学的に否定したことで、世界に衝撃を与えた。

② 少年期は学校の勉強に身が入らず自然と戯れるのが好きで、父親からは落ちこぼれとして悩みの種になっていた。

③ 科学者になる前は、医者や牧師になるための大学に通っていたが、植物学者ヘンズローとの出会いでその道が変化した。

チャールズ・ダーウィンが唱えた進化論。

それは、人間が特別な存在なのではなく、

どんな存在も特別で、かけがえのない命だということを証明する、

従来の常識を覆す画期的な発見だったのです。

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