フランスのヴァロワ朝第5代国王、
シャルル7世。
ジャンヌ・ダルクを見捨てた王として知られる一方、百年戦争を終結させた「勝利王」としても知られる人物です。
シャルル7世とは一体どんな人物だったのでしょうか。
今回は、彼の知られざる生涯について一緒に辿っていきましょう。
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シャルル7世はどんな人?
- 出身地:フランス
- 生年月日:1403年
- 死亡年月日:1461年(享年58歳)
- フランスヴァロワ朝第5代国王。百年戦争に終止符を打った「勝利王 」
シャルル7世 年表
西暦(年齢)
1403年(0歳)フランス国王シャルル6世の10番目の子、5男として誕生。
1416年(13歳)王位継承者となる。
1422年(19歳)父王の死により、事実上のフランス国王となる。
1429年(26歳)シノン城にてジャンヌ・ダルクと会う。7月、ランス・ノートルダム大聖堂にて戴冠式を行い正式な王を名乗る。
1436年(33歳)パリの奪還に成功。
1453年(50歳)ギュイエンヌを奪還し、百年戦争終結。
1456年(53歳)ジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判を行う。
1461年(58歳)死去。
シャルル7世の生涯
ここからは早速、シャルル7世の生涯についてご紹介していきます。
王子の誕生とその状況
シャルル7世が誕生したのは、百年戦争真っ只中の1403年のこと。
フランス、ヴァロワ朝の国王シャルル6世の第十子にして5番目の王子として生まれ育ちます。
ちなみに「百年戦争」とは簡単に説明すると、フランスとイギリスそれぞれの王国が領地や王位継承を巡り繰り広げた戦争のこと。
フランス国内でも王侯貴族たちが二派に別れ、日々激しい抗争が繰り広げられた内乱の時代でもあります。
1337年に始まり、シャルル7世はその末期に誕生したのでした。
この当時のフランスはと言うと、イギリスに対して連戦連敗の状況。
フランス王国の領地は次々とイギリスに奪われ、その大部分がイギリスの支配下にある様な状態でした。
突然の王位継承
・内乱
この二つの長期化に加え、
・自然災害
が追い打ちをかけ、フランス王国はまさに疲弊しきっていました。
そんな中、兄王子たちが次々と謎の死を遂げ、シャルル7世は13歳(14歳の説も)の時に突然王位継承者となったのです。
しかし1420年、フランス王国がイギリスに対して完全に敗北を認め、トロワ条約を締結。
シャルル7世の父、シャルル6世はフランスの王位継承権をイギリスの王に譲ってしまいます。
その約2年後、シャルル6世とイギリス王が相次いで死去したことで、またしても王位継承をめぐる問題が発生。
国とその王位を奪われてしまったシャルル7世は、イギリス軍と彼の台頭に反対する国内の勢力によって王都から追放される羽目に。
救世主が現れたのは、そんな頃でした。
シャルル7世を名乗る
フランス正統派であるアルマニャック派に後押しされ、ロワール川より南の地域に拠点を置いていたシャルル7世。
しかしそれもイギリス軍に包囲されている状態で、勢力は弱いものでした。
1429年、シャルル7世が26歳を迎える頃、そこに一人の人物が彼を訪ねてきます。
神のお告げを聞いたというその少女は、シノン城の謁見の間で他の人々に紛れているシャルル7世の元に迷いなく歩み寄り、
と進言します。
その少女こそ、ジャンヌ・ダルクだったのです。
ジャンヌ・ダルクが一目で自分を見つけ出したことに感心したシャルル7世は、彼女の言葉に耳を傾けることに。
するとその僅か1ヵ月後には、ジャンヌ率いる軍が周辺を包囲するイギリス軍の撃退に成功。
その数か月後には、ランス・ノートルダム大聖堂にてシャルル7世は戴冠式を行います。
正式に「シャルル7世」という王の名を名乗るようになったのはこの頃からです。
しかしその後、王都であるパリ奪還に向かったシャルル7世たちでしたが、それは失敗に終わりジャンヌ・ダルクはイギリス軍の捕虜に。
彼女は魔女裁判にかけられ、処刑されてしまいます。
シャルル7世はその後、フランス国内の派閥との和平を結び内乱を終結。
フランス内部の勢力とイギリスとの同盟を徐々に破棄させていきます。
1436年には遂にパリを奪還し、その後もフランス軍は順調に勝利を重ね、国土を回復していきました。
そして1453年、一部を除くほぼすべての国土からイギリス軍の駆逐に成功し、百年戦争を終結させたのです。
これにより、シャルル7世は以降「勝利王」としての異名を持つこととなりました。
王権の体制を強化
文字通り百年以上に渡る戦争を遂に終結させたシャルル7世。
彼はその後、内政に尽力していきます。
・常備軍の整備
・王族の権威を高める
等、フランス王国の中でも特に王権の体制を強化していきました。
これにより、当時王権の対抗勢力であったキリスト教勢力を抑え、国王の優位性を示すことに成功。
シャルル7世のこの改革により、中央集権国家的フランス絶対王政への道が開いていくこととなったのです。
シャルル7世にまつわるエピソードや伝説
ここではシャルル7世の人物像に迫るべく、彼にまつわるエピソードをご紹介していきます。
闇の背景
ジャンヌ・ダルクに出会い彼女の奇跡を目にするまで、王位継承者としての自信をなかなか持つことができずにいたシャルル7世。
彼の性格として挙げられているのが、優柔不断で不安を抱えやすいというもの。
しかし彼がそうなるのには、相応の理由もありました。
彼の父シャルル6世は精神的に疾患があり、統治能力を持たない狂人としても知られています。
そして母親である王妃は、数々の不倫騒動で知られている様な人物で、次期王にはイギリスに嫁がせた娘の生んだ王子を立てていました。
つまりシャルル7世とは対立関係にあったのです。
そのことからシャルル7世は、自分が本当は王の息子ではないのではないかという疑念をずっと拭えずにいたのです。
シャルル7世とジャンヌ・ダルク
シャルル7世の頼もしい味方であり、さらには後のフランスの勝利にまで貢献したと言えるジャンヌ・ダルク。
そんな彼女がイギリス軍の捕虜となった時、事実上彼女を見捨てることになったシャルル7世。
両者の知名度や人気度を考えたとき、圧倒的に勝っているのがジャンヌ・ダルクであるため、この出来事は彼女の視点から語られがちです。
そのため、シャルル7世は「ジャンヌ・ダルクを見捨てたひ弱な王」として認識されていることが多いのも事実。
しかし彼は百年戦争を終結させた後の1456年、ジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判を行っています。
彼女がイギリスを敗北させた悪魔としてではなく、フランスを勝利に導いた悲劇の戦乙女として現在でも認識されているのは、この裁判があったからだと言うこともできるのです。
きょうのまとめ
今回は、百年戦争を終結させたフランス国王、シャルル7世についてその生涯を辿っていきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、シャルル7世とはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① フランスヴァロワ朝、第5代国王。
② ジャンヌ・ダルクに背中を押されて百年戦争を終結させ、「勝利王」の異名を持つ。
③ 終戦後の内政では、王権を強化し後のフランス絶対王政の基礎を築いた。
ジャンヌ・ダルクのインパクトあるその生涯に押され、どうしてもマイナスなイメージを持たれやすいシャルル7世。
しかし彼の生涯を辿ってみると、意外にも後の時代にまで影響を与える功績を遺していたことが見えてきました。
それにより彼は、近世フランスにおける重要な王の一人に数えられているのです。
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