ベルリオーズとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀にパリで活躍した作曲家、

エクトル・ベルリオーズ

「ロマン派」の作曲家である彼は多くの標題音楽を創作し、管弦楽曲にも革命を起こしました。

ベルリオーズとは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は、その生涯と主な功績について一緒に見ていきましょう。

 

ベルリオーズはどんな人?

プロフィール

ベルリオーズの肖像(オノレ・ドーミエ画)
出典:Wikipedia

  • 出身地:フランス南部ドーフィネ地方
  • 生年月日:1803年12月11日
  • 死亡年月日:1869年3月8日(享年65歳)
  • 19世紀のフランス「ロマン派」を代表する音楽家。

 

ベルリオーズ 年表

年表

西暦(年齢)

1803年(0歳)フランス南部の村、ラ・コート・サンタンドレの医師の元に誕生。

1815年(12歳)音楽に興味を持ち始め、フルートやギター等を習う。

1821年(18歳)家業を継ぐためパリの医科大学に入学。オペラに魅せられ音楽家を志す。

1822年(19歳)大学の閉鎖に伴い、作曲活動を始める。

1824年(20歳)『荘厳ミサ曲』を作曲。

1826年(23歳)パリ音楽院に入学し作曲クラスに所属。

1828年(25歳)前年に続き2度目のローマ大賞に挑戦し、応募した『エルミニー』が第2位となる。

1829年(26歳)ゲーテの『ファウスト』に感銘を受け『ファウストからの8つの情景』を作曲。

1830年(27歳)『幻想交響曲』を作曲。『サルダナパールの死』を応募しローマ大賞を受賞。

1832年(29歳)イタリア留学を切り上げパリへ帰国。

1834年(31歳)パガニーニから依頼され交響曲『イタリアのハロルド』を作曲。

1837年(34歳)『レクイエム』を作曲。パガニーニから経済的援助を受ける。

1838年(35歳)オペラ『ベンヴェヌート・チェッリー二』が初演されるも失敗に終わる。

1839年(36歳)劇的交響曲『ロミオとジュリエット』をパガニーニに献呈する。パリ音楽院の図書館員となる。

1840年(37歳)革命記念式典に際し、フランス政府から依頼され『葬送と勝利の大交響曲』を作曲し初演。

1842年(39歳)演奏旅行を行いドイツ各地などを訪れる。

1843年(40歳)著作や作曲の執筆の他に、生活のために新聞や雑誌に評論の執筆等を行う。

1845年(42歳)2度目の演奏旅行を敢行。ウィーン、チェコ、ハンガリー等を訪れる。

1846年(43歳)オラトリオ『ファウスト劫罰』を作曲し初演。

1847年(44歳)演奏旅行でロシアを訪れる。

1848年(45歳)パリで勃発した2月革命の影響で作曲活動が制限され、評論と執筆活動を行う。

1849年(46歳)『テ・デウム』を作曲。

1851年(48歳)約4年間定期的にロンドンを訪れ指揮活動を行う。

1852年(49歳)パリ音楽院の図書館館長に就任。

1854年(51歳)再びドイツへの演奏旅行。5年がかりの『キリストの幼時』が完成し初演が成功する。

1856年(53歳)フランス学士院会員に任命され生活が安定する。大作オペラ『トロイア人』を作曲。

1862年(59歳)オペラ『ベアトリスとベネディクト』を作曲し初演。

1863年(60歳)『トロイア人』の後半部分がパリで初演される。

1866年(63歳)指揮活動のためにオーストリアを訪れ、翌年にドイツ、ロシアに赴く。

1869年(65歳)南仏で療養した後にパリで死去。

 

ベルリオーズの生涯

ここからはベルリオーズの主な功績や生涯についてご紹介していきます。

音楽との出会い

1803年、南フランスの村で開業医の息子として誕生したベルリオーズ。

長男だった彼は当初、父の病院を継ぐために医者になる運命を背負っていました。

しかし12歳の頃には音楽に興味を示し、フルートやギターを演奏。

そして作曲もするようになっていた彼は、18歳の時に医学大学入学のためにパリへ上京すると、音楽との決定的な繋がりを持ってしまいます。

パリの劇場で鑑賞したオペラに強い感銘を受けたベルリオーズは、本格的に作曲家となる意志を固めたのです。

当初は父親からの強い反対を受けた彼でしたが、23歳の時に許可を得るとパリ音楽院に入学。

こうして音楽家としてのキャリアをスタートさせました。

ロマン派の音楽家

ベルリオーズの功績を語るうえで外せないポイントは2つ。

・標題音楽

・管弦楽曲の革命

です。

「標題音楽」とは、作曲する際に楽譜にその曲の表す情景やイメージ、そして心情など、言葉による説明を付け加える方法です。

彼の代表作となった『幻想交響曲』は、女優ハリエット・スミスソンに対しての報われない恋心が表された標題音楽の典型的な作品。

ちなみにこの作品は史上初の標題音楽作品とも言われています。

フランス革命後に誕生し、その影響の残るパリで活動したベルリオーズは、都会に住む人々の孤独やその心情に目を向けました。

その点は近代以降の新しい視点であり、彼が音楽界に革命を起こす所以に繋がります。

その後もベルリオーズは標題音楽を積極的に創作し、楽劇王ワーグナーなど同時代の音楽家たちにも大きな影響を与えることになりました。

そしてもうひとつの功績として挙げた「管弦楽曲の革命」について。

これは管弦楽曲を作曲する際、ベルリオーズは楽器の組み合わせ方を模索し、積極的に新たな方法を開拓していったと言うことができます。

革新的ゆえに・・・

彼の作品はワーグナー他、フランツ・リストやパガニーニら著名なロマン派の音楽家に支持される一方で、その前進的な姿勢は一般聴衆の心を捉えるのは困難でした。

・『レクイエム』

・大作オペラ『トロイア人』etc…

現代でこそその価値が認められているベルリオーズの作品たちは、彼の生前にはなかなか理解を得られなかったのです。

そのためベルリオーズは晩年まで作曲家として生計を立てるのが難しく、

・評論の執筆

・指揮活動

・パリ音楽院の図書館員(後に館長)

等の仕事にも就き、そこでなんとかわずかな生活費を得ていました。

 

愛する者たちの死

ここではベルリオーズの人物像を知るために、彼にまつわる悲しいエピソードを一つご紹介します。

ベルリオーズは生涯で2度の結婚をしています。

一度目の結婚は、彼が『幻想交響曲』を生むきっかけとなった女優のハリエット・スミスソン。

運命的な出会いと再会を経て結ばれた2人でしたが、結局その幸せは長続きせず。

不仲になった2人は、ハリエットが病で亡くなるまで長いこと別居生活を送りました。

それでも完全に縁を断ち切ることはできなかったベルリオーズ。

とうとう離婚はしませんでした。

最初の妻が亡くなってから再婚した相手は歌手で、先妻との別居中には既に、演奏旅行に共に赴く関係でした。

しかしその結婚生活も、彼女が心臓発作によって目の前で亡くなってしまったことにより突然終わりを迎えます。

そしてさらに悲劇はベルリオーズを襲います。

彼の子供は先妻との間に男児が一人。

ベルリオーズの父親と同じ名前のその男の子は成長すると船乗りになったのですが、後妻に先立たれて間もなく彼も相次いで亡くなってしまったのです。

こうしてベルリオーズは孤独を感じる中、息子に先立たれて数年後、65歳で生涯を閉じました。

 

きょうのまとめ

今回は、19世紀パリでロマン派の作曲家となったベルリオーズの生涯について、主な功績やエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ベルリオーズとはどのような人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀のパリで活躍した作曲家。

② 「ロマン派」を代表する人物の一人。

③ 標題音楽に力を入れ、管弦楽曲に革命を起こした。

生前の活動では思うように評価を得られなかったベルリオーズ。

しかしその前進的な功績は彼の死後徐々に評価を高め、今日までの歴史に名を刻む重要な作曲家の一人となったのです。

 
目次に戻る ▶▶
 

 

その他の世界の偉人ははこちらから

関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

twenty − 1 =