古代イン古代インド、マウリヤ朝の王として君臨したアショーカ王。
彼は元々兄弟さえも殺してしまうほどの、残虐非道の暴君でした。
そこから仏教を学び、人格を改めていったと残されています。
アショーカ王とは、一体どんな人だったのか。
その生涯に迫っていくこととしましょう。
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アショーカはどんな人?
- 出身地:古代インドのマガダ国の都パータリプトラ(現在のビハール州パトナ)
- 生年月日:紀元前304年
- 死亡年月日:紀元前232年(享年72歳)
- 古代インドマウリヤ朝の王。残虐非道な性格から仏教の学び、慈悲深い人物に改心していったとされる。
アショーカ王 年表
西暦(年齢)
紀元前304年(1歳)古代インドの王ビンドゥサーラと、その剃毛師をしていた女性の間に生まれる。
紀元前268年(36歳)父亡き後、古代インドマウリヤ朝の王となる。
紀元前265年(39歳)カリンガ戦争。約10万人もの人々の死を目の当たりにし、考えを改め始める。
紀元前260年(44歳)名もない僧侶の説教を聞き、仏教に改宗する。
紀元前258年(46歳)釈迦にゆかりがある土地を巡るなど、仏教への理解を深めていく。また法を定め、それがきちんと行われているか自ら確認して回った。
紀元前232年(74歳)インドの仏教の中心、タキシラにて死没。
残虐非道から慈悲深い心の持ち主へ
アショーカ王を改心させたカリンガ戦争
古代インドの中東部に位置したカリンガという国は強大な勢力を持った大国でした。
アショーカ王が治めたマウリヤ朝は、古代インド亜大陸のほぼ全域を支配するほどの勢いを持っていましたが、カリンガはそのマウリヤ朝にすら屈せず、対立していたのです。
この対立から巻き起こったのが、紀元前265年頃に起こったカリンガ戦争。
この戦争は絶対的な勢力を持ったマウリヤ朝の軍でさえ、逃げ帰ることすらあったほど、どちらも譲らない争いになっていました。
そして激戦の末マウリヤ朝は勝利を手にします。
この際、負けたカリンガの民15万人をマウリヤ朝は捕虜として捕まえました。
そしてなんと、そのうち10万人が殺されることに。
捕虜以外にも、戦争によって数十万人もの犠牲者が出ました。
このうち民衆の指導者であった、バラモンやシャモンと呼ばれる宗教の司祭たちも殺されてしまい、多くの人たちが路頭に迷うことになってしまったのです。
この悲惨な光景を目の当たりにしたアショーカ王は、これまでの残虐な性格を悔い改め、仏教を深く学ぶようになっていきました。
アショーカ王の残した碑文(石などに文字を刻んだもの)では、この後に法として不殺生(生き物を殺さない)、正しい人間関係、貧しい人にも平等になどの人道的な内容が記されています。
民衆のために病院や薬草園、道路などの設備もどんどん充実させていきました。
ですがその結果、政治が上手く回らなくなってしまったという説も。
敵襲に対応できなくなった、財政が悪化してしまったなど、諸説ありますが、この辺りははっきりとはしていません。
その時期の碑文も残っていないことから、碑文を残す余裕がないぐらい政治が混乱していたと考えられています。
改心するまでの性格
改心するまでの性格はまさに残虐非道です。
アショーカ王は父のヒンドゥサーラ王が亡くなった際、本当は王位を継がせてもらえないことになっていました。
アショーカ王とヒンドゥサーラ王はとても仲の悪い親子だったのです。
ヒンドゥサーラ王は、遺言でアショーカ王の兄弟であるスシーマに次の王を継がせようとしていました。
これを目の当たりにしたアショーカ王がどうしたかというと、なんとスシーマを殺し、自ら王位の座を奪ってしまったのです。
この他にも、王位の継承を邪魔させないように、兄弟を99人も殺してしまったといいます。
まずヒンドゥサーラ王が、子供を作り過ぎだろうという話ですが…古代インドの血縁関係がどうなっていたのか定かではないので、全員が彼の子供とは限らないですね。
こうして王位についたアショーカ王でしたが、大臣たちは彼を王とは認めず、なめてかかったといいます。
無理矢理王位を奪ったことがいけなかったのでしょうか…。
アショーカ王はこれにも激怒。大臣を500人近くも殺してしまいます。
驚くほどの数の人を殺していますね…こんな人がカリンガ戦争で改心するなんてあり得るのか?と感じてしまいます。
そうなんです。実はこの話、アショーカ王の時代が終わった後、仏教徒たちが彼の人格を大袈裟に語ったものではないかといわれています。
その時代の仏教徒たちは、そんな残酷な性格を持った人物が改心できるほどの宗教だと、仏教のことを伝えたかったのでしょうね。
父親との不仲
アショーカ王と、父のヒンドゥサーラ王が不仲だったことは先ほども触れました。
これにも逸話が残っています。
アショーカ王は王子時代、父の命令で反乱を鎮圧する役目を何度も任されていました。
これは、アショーカ王の戦争の手腕を信頼してとか、そういう話ではありません。
彼はなんと、武器を持つことを許されず、素手で反乱の鎮圧に向かわされていたのです。
父親がアショーカ王のことを殺しにかかっているとしか思えませんね…。
あるとき、インド仏教の中心地であるタキシラの反乱を鎮めに行った際には、心配する部下にこういったとされています。
「自分が王にふさわしい人間なら、武器や軍を持たずともそれらは自ずと現れる」
その後大地が割け、武器と軍が現れたとする伝説も残っていますが…本当のところはどうなのでしょうね?
きょうのまとめ
アショーカ王の生涯を辿ってみると、驚くほどに人格が変わっていく様子が興味深いですね。
彼を変えた出来事が人の死だということもまた、考えさせられるものがあります。
その人物像を簡単にまとめてみると…
① 父とは仲が悪く、兄弟も殺してしまうほど荒々しい性格だった
② カリンガとの戦争で多くの人の不幸や死を目の当たりにし、改心した
③ 仏教を学び、慈悲の心を感じさせる法をたくさん定めた
といったところでしょうか。
アショーカ王が残虐な性格だったということには不確かな部分もありますが、最後に優しい王様だったということは、正式な碑文が残されていることからも確かですね。
その後国が上手くいかなかったというのは、「優しいだけでは成り立たない」といわれているようで少し複雑な気持ちにもさせられますが…。
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