室町幕府の第13代将軍
足利義輝。
歴史の授業なんかではあんまり聞かない名前ですが、最近知ったという人も多いのでは?
そう、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』にて、向井理さんが演じたことで話題になった将軍ですね!
でも…
「すごい人オーラ全開で出てきた割に、京を追われてうだつが上がらなかった人だよね」
などと思っている人も、また多いでしょう。
実際のところ、これは半分正解で、半分不正解。
だって義輝はうだつの上がらない将軍などではなく、「天下を治む器用あり」と称されるすごい将軍だったのだから!
実は歴代隋一の剣豪将軍だという話も…?
足利義輝とはいったいどんな人物だったのか、以下よりその生涯に迫りましょう!
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足利義輝はどんな人?
- 出身地:京都・東山南禅寺
- 生年月日:1536年3月31日
- 死亡年月日:1565年6月17日(享年30歳)
- 室町幕府代13代将軍。戦国時代に突入し、衰退した将軍家を立て直すべく奮闘した。歴代隋一の剣豪将軍。
足利義輝 年表
西暦(年齢)
1536年(1歳)東山南禅寺にて12代将軍・義晴、母・慶寿院の嫡男として生まれる。誕生直後、母方の祖父・近衛尚通の養子となる。
1546年(11歳)朝廷から義藤の名を授かり元服。第13代将軍に就任する。
1548年(13歳)管領・細川晴元との対立で長年京を離れていたが、この年に和睦。京へ戻り晴元にも将軍として認められる。
1549年(14歳)細川家家臣・三好長慶が台頭。「江口の戦い」にて晴元を破ったことで、晴元についた義輝も京を追われる。
1550年(15歳)父・義晴が逃亡先の近江・穴太にて死没。義輝は京に中尾城を築き、三好軍と対峙するも敗走した。
1551年(16歳)近江の大名・六角定頼の引き立てで近江・朽木谷へと移る。三好長慶の暗殺を謀るも失敗。また幕府軍は「相国寺の戦い」にて三好家家臣・松永久秀と対峙しているが、これも破られる。
1552年(17歳)大名・六角義賢の仲立ちで三好長慶と和睦し、京へ戻る。
1553年(18歳)三好長慶と再び対立。「東山霊山城の戦い」にて籠城戦を挑むが、敗北し近江・朽木谷へ逃れる。この間、諸大名の和睦調停、新守護の任命などで権威の回復を図る。
1558年(23歳)朝廷が義輝への通達なしに改元を勧めたことに怒り、三好家に挙兵する。「北白川の戦い」を経て和睦が成立。以降、京にて政治手腕を発揮していく。
1565年(30歳)長慶など、主要人物が相次いで没したことに焦り、三好勢が二条御所にて将軍に異議申し立てを行う「御所巻き」が行われる。将軍の襲撃に発展し、義輝は御所にて討ち死にする。
足利義輝の生涯
ここからは足利義輝の生涯にまつわるエピソードを詳しく辿っていきましょう!
幼少期・細川家の内紛により京と近江を行ったり来たり…
1536年、足利義輝は12代将軍・義晴の嫡男として、京都は東山南禅寺にて生を受けました。
幼名は菊童丸、元服時には義藤、そののちに義輝と名を改めています。
母は関白・近衛尚通の娘である慶寿院。
朝廷でも最高位に位置する摂関家出身の妻から生まれたという意味では、義輝は唯一の将軍でした。
さらに正室の子が将軍になるのも、9代将軍義尚以来のこと。
いろいろと鳴り物入りで生まれてきた嫡子だったわけですね。
ただし、そんな出生の経緯とは裏腹に、義輝の幼少期はなんとも報われないものでした。
当時、京では管領の細川家が内紛を起こしており、父・義晴は難を逃れるために京と近江を行ったり来たり…。
(※管領…幕府で将軍に次ぐ地位の大名)
義輝も父に伴って逃亡生活を余儀なくされていました。
細川家の内紛の経緯は以下の通り。
細川家の家督を巡って、細川高国が細川澄元を京から追い出す。
↓
高国が足利義晴を12代将軍に擁立。
↓
澄元の息子・晴元が復讐にやってきて、高国を成敗。
↓
高国の息子・氏綱が復讐にやってくるも、晴元に追い払われる。
…と、かいつまんでも非常にややこしいのですが、だいたいこんな感じです。
高国によって擁立された義晴は、最終的に高国の息子・氏綱につくことになり、そのため晴元によって京を追われる身となってしまったのですね。
このような状況下のため、義輝は11歳のころの元服も、京ではなく、近江の日吉神社にて行っています。
烏帽子親を近江の大名・六角定頼が務めたのですが、通常ならこれは管領である細川氏の役目。
(※烏帽子親…将軍の元服に際し、後見人としてお世話をする人のこと)
六角氏を指定したのは、父・義晴の細川氏へのせめてもの抵抗だといわれています。
なぜ将軍の立場がそんなに弱いの?
ここまでを見て、
「内紛に巻き込まれて逃げていたって、細川氏は将軍の家臣だよね?逃げずに争いを辞めさせることはできなかったの?」
などと思った人もいるのではないでしょうか。
足利将軍家が辿ってきた経緯を知らないと、なぜ将軍が家臣の小競り合いにそこまで左右されているのか不思議に思えますよね。
実は義輝の時代の将軍家というのは、直属の家臣をほとんどもたない非常に弱い立場にありました。
というのも、この時代、将軍直属の家臣であったはずの守護はもはや将軍のもとを離れ、領国を完全に独立経営している状態にあったからです。
そもそも守護というのは、将軍に領国の管理を任された役職であり、いわば
守護=支店長
みたいな立場でした。
しかし代を重ねるにつれ、忠誠心は次第に薄れ、守護のなかでも領国を私物化しだす者が出てくるのです。
そんな状況のなか、1467年から11年続いた「応仁の乱」により、事態は急変します。
応仁の乱は総勢26万の兵が参戦し、京都全域を壊滅させた大戦。
各国を巻き込んだこの戦をきっかけに、諸大名と将軍のコネクションはバラバラの状態に…。
さらに将軍家の家督相続を巡っての争いだったこともあり、将軍の権威は地に落ちてしまうのです。
こういった経緯から8代将軍・義政以降、守護たちは将軍の手元を離れ、各国を独立経営している状況になりました。
いわゆる戦国時代の幕開けですね。
つまり将軍は直属の家臣を失い、各国の大名たちに反発されればとても太刀打ちできない状態。
そのため京で戦が起きれば、いずれかの勢力について従うほかなかったのです。
ただ一応は「武家の棟梁」という大義名分があるため、内紛を起こしていた細川氏も、権力を誇示するために将軍という地位の人間が必要でした。
権威を利用するために擁立しているものの、忠誠心はゼロ…みたいな感じですかね。
三好長慶との対立
長年京を追われていた将軍家ですが、義輝が将軍に就任したことをきっかけに、1548年に細川晴元と和睦。
こうして義輝は無事京へ戻ることができたのですが、それも束の間でした。
義輝が京へ戻った翌年、1549年のこと、細川晴元の家臣・三好長慶が晴元を裏切り、細川氏綱を擁立。
晴元と長慶が対立することになります。
このとき義輝は和睦を結んだ都合上、晴元サイドについたのですが、なんと「江口の戦い」にて、晴元が敗走。
義輝もそれに伴って、再び京を追われる身となってしまいます。
父・義晴はそのまま近江の地で非望の死を遂げることになってしまいました。
ここから京へ戻るため、義輝もさまざまな策を講じますが、この時期の出来事はことごとく踏んだり蹴ったりなんですよね…。
・六角定頼に従い、朽木谷へ移ると、それに反発した伊勢貞孝が離反し三好家サイドにつく
・長慶に暗殺者を送り込むも、失敗
・幕府軍が「相国寺の戦い」にて三好勢に挑むも、敗戦
・三好派の守護代・遊佐長教が暗殺され、これが義輝の仕業だと京で噂になる
このように何をやっても、てんでうまくいきません。
その後一度は三好家と和睦し京へ戻るも、すぐに対立してまた逃亡生活。
このときはそれまでの守護を数名剥奪してまで、大名・尼子晴久を山陽山陰8ヵ国の守護にするなど、義輝の大胆な行動が火種に。
加えて側近の上野孝信が京で幅を利かせるようになっていたことも、三好側の反発を招いてしまったみたいですね。
義輝も権威を取り戻すため、ちょっと頑張り過ぎてしまったのかも…?
将軍の威厳を取り戻すために
以降、1553年から5年間、義輝は近江・朽木谷での生活を強いられることになります。
しかし彼は決して、三好家の勢いに屈したわけではありません。
京を追われている期間、義輝が奔走したもの、それは各地で行われる戦の和睦調停でした。
そう、将軍はたしかに武力では、家臣の大名たちに太刀打ちできません。
ただし和睦調停は各国とつながりのある人物にしかできないことであり、それこそ将軍の特権でした。
この時代、大名たちは
「やらなければやられる」
という想いで戦に挑んでいますから、将軍の大義名分で和睦を取り付けられることをありがたく思う者は少なくありません。
このようにして義輝は諸大名に将軍の存在意義を再認識させ、その権威を回復させていくのです。
義輝が関わった和睦調停はざっと挙げて以下の通り。
・里見義堯vs北条氏康(1550年)
・朝倉義景vs石山本願寺(1556年)
・武田晴信vs長尾景虎(1558年)
・島津貴久vs大友義鎮、毛利元就vs尼子晴久(1560年)
・松平元康vs今川氏真(1561年)
このほか、これまた将軍の特権である新守護の任命も積極的に行っており、
「守護の座も将軍の計らい次第」
という事実をも、大名たちに認識させていきます。
将軍家が衰退した応仁の乱以降、復権のためにここまで尽力した将軍は義輝が初めてでした。
京に返り咲いた義輝
1558年に義輝は三好長慶と和睦を取り付け、再び京へと戻ることに。
この時期にはすっかり権威は回復しており、和睦にいたったのも、義輝の味方をする勢力が増えたためだといわれています。
その証拠に、1559年には織田信長・斎藤義龍・長尾景虎(のちの上杉謙信)などが義輝に拝謁するため上洛。
そうそうたる面々に、諸大名のあいだで将軍が欠かせない存在となっていることが如実にわかりますね。
さらに義輝は三好勢への牽制も忘れません。
京へ戻ると、義輝は三好長慶を相伴衆、その子義興や家臣の松永久秀を自身の側近にするなど、三好家をこれでもかと厚遇するのです。
(※相伴衆…幕府の管領に次ぐ高い地位の官職)
「三好家はあくまで将軍の家臣である」
という上下関係を明確にし、簡単に反発できない状況を作ったわけですね。
三好長慶は
「あまり関わりすぎると、三好家の勢力を将軍に取り込まれてしまう」
と、この動きを警戒し、嫡男の義興に家督を相続。
自身は大御所として義輝と距離を置き、あまり関わらないように計らっていきます。
さらに義輝はそれまで政所を治めていた伊勢貞孝をクビにし、摂津晴門を新しい頭人として採用。
政所は幕府の領地・財政管理を司る部署ですが、伊勢氏はその組織を将軍が簡単に介入できない体制に築き上げていました。
義輝はその人事を入れ替えることで、ひた隠しになっていたそれらの事情もクリアにしていったのです。
和睦調停で権威を回復させたのもすごいけど、京へ戻ってからの内政もすごい!
これが
「天下を治む器用あり」
と称された将軍・足利義輝です!
天下平定の大望も?
京へ戻った義輝のもとへほどなくして、長尾景虎が拝謁しにやってきたことは前述の通り。
その際、景虎は義輝への忠誠を誓い、義輝はその見返りに景虎を関東管領に任命しています。
さらに景虎と関白・近衛前久を引き合わせたという話もあり、このあと景虎は朝廷の権力をもって関東平定に挑むことに。
まずは関東を治め、そののちに上洛を果たし、義輝を支えるという約束になっていた説があるのです。
関東平定を成した景虎が義輝と手を合わせれば、もはや天下平定も目前。
将軍の権威回復に務めた義輝の夢は、日本全土を支配するほどのものになっていた可能性もあるのですね!
ちなみに長尾景虎はのちに上杉輝虎と名を改めます。
この「輝虎」というのは義輝から授かった名で、景虎の忠誠の証でもあるんですよ。
三好家の衰退
京へ戻り、着実に権威を取り戻しつつある義輝。
一方、彼と対立していた三好家はこの時期、衰退の一途を辿っていました。
以下のような悲劇が立て続けに、当主である長慶を襲うのです。
・弟の三好実休が戦死(1562年)
・嫡男の義興が病没(1563年)
・家臣に騙され、弟の安宅冬康を処刑(1564年)
1564年、ついには、これらの事件にすっかり覇気をなくした長慶も病没してしまいます。
これで義輝の治世を脅かす存在ももはやいなくなった…と、思いきや、このことが引き金になり、義輝にとって生涯最初で最後の大事件に発展してしまうのです。
剣豪将軍・義輝の最期
1565年5月19日、三好長慶の養子となり家督を継いだ三好義継、その家臣・松永久通らを筆頭にして、二条御所を1万の軍勢が取り囲みます。
これは俗に「御所巻き」と呼ばれる行為。
将軍に家臣が異議申し立てをする場合、大軍を率いて御所を取り囲むというのが当時の習わしとなっていたのです。
そしてこのとき三好義継が掲げた異議申し立てとは…
「将軍の座を足利義栄に譲れ」
というもの。
足利義栄は義輝の従弟で、阿波国(現・徳島県)にて三好家の庇護を受けている人物でした。
父・長慶が築いた権力を手放したくない義継としては、積極的に治世に取り組む義輝は非常に目障りな存在。
つまるところ、三好家が擁している義栄を将軍に挿げ替えたほうが、京での覇権が操りやすいと義継は考えたのです。
しかしそこは、家臣の脅しに屈するような義輝ではありません。
三好サイドの要求は当然受け入れられず、御所巻きはそのまま将軍襲撃の騒ぎに発展。
これが「永禄の変」です。
明らかな衰退に対する焦りから、三好家が暴走してしまった…という感じでしょうか。
そして皮肉なことに、ここからが歴代将軍隋一といわれた剣豪・義輝の腕の見せ所なのです。
剣聖・塚原卜伝から受け継いだ剣術が炸裂!
義輝は近江・朽木谷で過ごしていたころ、当時剣聖と呼ばれていた塚原卜伝という人物に剣技を習っていたという話があります。
卜伝は全国を剣術修行して回る剣豪で、実際の戦と稽古を含め、数百人の相手と対峙したという話。
その実力は弓矢の攻撃以外では、傷を一度も負ったことがないとされるほどのものでした。
義輝は卜伝がかつて、祖父の義澄に仕えた縁から剣術を習うことに。
しかも義輝はそもそも剣の才能があったため、卜伝の「鹿島新當流」を見事体得してみせたというのです。
そして義輝の鹿島新當流が実践の場で初めて披露されたのが、この永禄の変においてでした。
鹿島新當流の極意は、甲冑の隙間を狙い、一太刀で相手を仕留めること。
義輝はその剣技で御所になだれ込んでくる三好勢を次々と斬り倒していきます。
戦いは2時間以上にも渡り、わずかな側近と義輝だけで、200人以上を倒したという話も。
しかし多勢に無勢というべきか…
最期は三好勢が畳や障子を用い、数人がかりで義輝を押さえつけ、その上から刺し殺すという結末を迎えることになります。
これらは後世の軍記物の記述なので、どこまでが本当の話かは謎のまま。
ただし、徳川幕府の兵法指南役・柳生宗矩は歴代屈指の剣豪として義輝の名を挙げており、剣術に長けていたという事実は紛れもないようです。
そんな義輝が残した辞世の句が以下の通り。
「五月雨は 露か涙か 不如帰 わが名をあげよ 雲の上まで」
大望を抱きながらも、志半ばで諦めざるを得なくなった悔しさがにじみ出ていますね…。
きょうのまとめ
権威を失った将軍家の運命に抗い、見事京に返り咲いてみせた足利義輝。
その実態は、政治手腕に優れ、一撃必殺の剣術・鹿島新當流を使いこなす、すごすぎる将軍さまでした。
ほんとに、若くして亡くなってしまったことが惜しまれますね…。
最後に今回のまとめです。
① 足利義輝の時代は将軍の権威が地に落ちており、大名が争えば将軍はいずれかの勢力に従うほかなかった。そのため義輝も幼少から逃亡生活を強いられる。
② 各国大名の和睦調停、守護の任命に積極的に取り組み、諸大名から支持を得ていった義輝。京に戻ってからは内政にも長け、「天下を治む器用あり」と評されるほどになる。
③ 義輝は剣聖・塚原卜伝から鹿島新當流を受け継いだ剣豪。「永禄の変」では2時間に渡り、押し寄せる三好の大軍を斬り伏せた。
それにしても、ここまでやり手の将軍だったとは…予想外な人も多かったのでは?
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