古代エジプト第18王朝のファラオ、アメンホテプ4世は、紀元前14世紀のエジプトにおいて、世界初の唯一神信仰を掲げた大規模な宗教革命を起こした人物です。
この出来事は国全体の常識をくつがえすほどのインパクトを持っていましたが、結局は国民に浸透せず、彼の死後唯一神信仰は廃止されることになりました。
それだけならまだいいのですが、なんと後世の王からは「異端の王」などと罵倒されてしまう、なんだか可哀想な境遇を持つ人でもあります。
そんなアメンホテプ4世、具体的にはどんな人だったのでしょうか。
その生涯と、彼が王としてエジプトに巻き起こした改革を元に、人物像に迫っていきます!
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アメンホテプ4世はどんな人?
- 出身地:古代エジプト
- 生年月日:紀元前1362年
- 死亡年月日:紀元前1333年(享年30歳)
- 古代エジプト第18王朝のファラオ。世界初の唯一神信仰を推進し、紀元前14世紀のエジプトに大規模な宗教革命を起こした
アメンホテプ4世 年表
西暦(年齢)
前1362年(1歳)古代エジプトにて父アメンホテプ3世、母ティイの間に生まれる。
前1350年(12歳)父アメンホテプ3世より王位を継承する。
前1346年(16歳)唯一神アテンの信仰を掲げ、新都アケトアテン(アテンの地平という意味)の建設を開始。それまでの多神教を廃止するアマルナ革命を起こす。
前1345年(17歳)自らの名を「アクエンアテン」に改名。
前1343年(19歳)首都をテーベからアケトアテンへ移す。
前1336年(27歳)王位を四女のネフェルネフェルアテンに譲り、退位する。
前1333年(30歳)死没しテーベにて埋葬される。後に反対勢力に荒らされることを避けるため、王墓が集まる「王家の谷」に遺体が移される。
それまで信じられていた神々の像を破壊!?多神教の廃止へ
紀元前1346年ごろのこと、アメンホテプ4世は国の宗教として、唯一神アテンの信仰を掲げ、他の神様を信仰することを一切禁じてしまいます。
これが歴史学上でいうところの「アマルナ革命」です。
それまでのエジプトでは、人それぞれ様々な神様が信仰されていましたが、なんとこの改革でアテン神以外の神様の像はすべて破壊されてしまったといいます。
ちょっと過激すぎるようにも思えますが、そこまで徹底することにも理由がありました。
神官たちに王権を奪われることを危惧しての改革だった
アメンホテプ4世がアテン神以外の信仰を禁じることになったのは、それまで信仰されていたアメン神に仕える神官たちに権力を奪われそうになったからです。
エジプトの神様といえば、太陽神ラー、オシリス神などは神話などでも有名なので、聞いたことがある人も多いでしょう。
当時その中でも最も有力だったのが、首都テーベの守護神として祀られていたアメン神でした。
当時のエジプトは西アジアへの征服活動が盛んだったため、その加護を司るとされていたアメン神が強く信仰されていたのです。
よってアメン神が祀られていた神殿には、戦利品や土地などが貢ぎ物として頻繁に贈られていました。
これによって富を築き、権力を持つようになっていたのがアメン神に仕える神官たち。
この一連の流れからアメンホテプ4世は、「このままでは神官たちに王権を奪われてしまう!」と危機を感じ、唯一神の信仰を掲げるにいたったのです。
首都に唯一神アテンの名前を付ける・自らも改名
アメンホテプ4世の行った改革は、単に王権を神官たちから守るためだけではない側面もありました。
改革によって首都を移すのはわかりますが、その首都の名前には「アケトアテン」という名前を付けています(後にアマルナという地名に)。
そして続けざまにアメンホテプ4世は自身の名前を「アクエンアテン」と改名しました。
さらに彼はアテン神を称えるための詩なども執筆。
これらの事象から王権のためだけでなく、アメンホテプ4世は宗教家としてアテン神を敬愛していたことがわかります。
アテン神は地方のマイナーな神様だった
アメンホテプ4世がここまで敬愛していたとなると、アテン神がどんな神様かということも気になるところ。
しかしこのアテン神というのは、実は地方で信仰されていたマイナーな神様で、唯一神として掲げられるまでは一般的には知られていませんでした。
国民としては、いきなり聞いたこともないような神様が唯一神とされるわけですから、大層戸惑ったに違いありません。
「どうしてアテン神だったのだろう…」と思わされるところですが、アメンホテプ4世がアテン神を信仰するようになったのは、正妻のネフェルティティの影響だとか。
昔の王族というと男性が権力を持っているようなイメージですが、アメンホテプ4世は愛妻家だったのかもしれませんね。
実際は二神教だった?
アテン神を唯一神と掲げたアメンホテプ4世でしたが、実のところアテン神を信仰していたのは彼だけだったといわれています。
アテン神を祀る祭典執行の権利は王だけに与えられ、宮殿内で行われていたため、どのように信仰されているのかを国民は知る術もなかったのです。
これでは国民としては「唯一神といわれても…」となってしまいます。
そこでアメンホテプ4世がどうしたかというと、アテン神から教えを受けている自分を神として、国民に信仰させたのです。
よってアメンホテプ4世にとっての神はアテン神、国民にとっての神はアメンホテプ4世という、事実上二神教の国家が築かれていたことになります。
失敗に終わった宗教改革
唯一神と掲げられたものの、国民の多くはそれまでアテン神を知りもしなかったような状況…。
そして実際にアテン神を信仰できるのは王だけで、挙句の果てに王は自分を神だといい出す始末です。
また国民たちはそれまで信仰していた神をいきなり奪われたということもあり、アテン神の信仰に反発を示す人が大勢いました。
このような背景があり、紀元前1336年、アメンホテプ4世は失意のうちに退位することに。
そして後の王となったツタンカーメンによって、エジプトは元の多神教国家へと戻っていきました。
アテンの存在も神ではなく、「天体としての太陽」を表す言葉へと意味を変えていくことになります。
きょうのまとめ
アメンホテプ4世が行ったアマルナ革命は、結果としては失敗に終わってしまいました。
世界史を見ていると、宗教がいかに歴史を動かしているかに気付かされます。
それだけ宗教は人間にとってよりどころとなる要素で、いかに国王の命令だといっても、信仰が簡単にくつがえるものではないのです。
アメンホテプ4世自身も他の国民たちと同様に、自分の宗教において絶対的な信仰を持っていたわけですから、唯一神国家の難しさはわかっていたのではないでしょうか。
しかも世界初のことで、前例はありません。
これらを踏まえると、失敗したとはいえ、その行動力に感嘆させられます。
今回の内容を簡単にまとめると…
① アメンホテプ4世はアメン神を祀る神官たちから王権を守るために、唯一神の国家を築こうとした
② 王権のためだけではなく、宗教家としてもアテン神を深く愛していた
③ アテン神の実態の知れなさや、自身の信仰を否定された国民の反発により、改革は失敗した
以上のようなことがいえるでしょう。
「異端の王」などと呼ばれてしまうアメンホテプ4世ですが、その行為には「アメン神に仕える神官たちに好き勝手させてはいけない」という動機がありました。
その時代のことは知る術もありませんが、もし神官たちの振る舞いが国民にとって傲慢であったとしたら、アマルナ革命が異端だとはいい切れません。
起こった事実にどういう背景があって、当事者たちは何を考えていたのか…やはり想像を膨らませることが歴史の面白い部分ですね!
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