天草四郎を知っていますか?
日本史好きなら聞いたことのある「島原の乱」の指導者として知られています。
その天草四郎と豊臣家の間には深い繋がりがあったと言われています。
その伝説は果たして本当なのでしょうか。
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天草四郎と豊臣の関係とは
天草四郎と豊臣家の深い繋がりとは何なのでしょう。
天草四郎と豊臣家の伝説について調べてみました。
天草四郎とは
天草四郎は、本名を益田四郎と言います。
関が原の戦いに敗れて斬首された小西行長の家臣で、
益田好次の嫡男として天草で生まれました。
生まれながらにカリスマ性があり、優しく聡明な子供でした。
裕福だったため幼少の頃から学問に親しみ、優れた教養を持っていました。
これが天草四郎の表向きのプロフィールです。
しかしここで少し謎が残ります。
益田家は小西家が滅亡してからは、浪人や百姓をして暮らしていたと言います。
なぜ裕福な暮らしができたのか、疑問です。
また小西行長は豊臣秀吉に仕えた武将です。
つまり、小西行長の家臣であった益田家も豊臣家に仕えていたことになります。
ここで少し、天草四郎と豊臣家の繋がりが見えてきます。
天草四郎は豊臣秀頼のご落胤
次は豊臣家に仕えていたどころの話しではありません。
天草四郎は豊臣秀頼のご落胤だという伝説が残っているのです。
ご落胤とは、父親に認知されていない子供のことです。
秀頼の子供ならば、秀吉にとっては孫にあたる人物です。
なぜこのような伝説が生まれたのか見ていきましょう。
その根拠となるのは、以下のようなものがあります。
・「豊臣秀綱」を名乗っていたという資料が鹿児島に残っている
・江戸幕府が「島原の乱」について記した文章の中に「天草四郎は秀頼の子」という記述が残されている
豊臣家と同じ馬印は、当時簡単に使えるものではありませんでした。
豊臣家に縁がある人物だと言うことを示していると思われても仕方ありません。
幕府の資料に秀頼の子と書かれているとなると、信憑性が出てきますね。
豊臣秀頼は生きていた
そもそも、豊臣秀頼は大坂城で自害したのではないか?
ご落胤ってどういうこと?と疑問を持った方もいるでしょう。
「秀頼は大阪城で死んでおらず密かに逃げ延びた」という伝説が
九州地方では特に多く残っているのです。
大阪の陣が終結した当時からも秀頼生存の噂は絶えなかったようで、
真田幸村が秀頼をつれて薩摩へ逃げたという話しが、真田家の本拠地、信濃・松代まで聞こえたと
「幸村君伝記」に書かれています。
鹿児島県には秀頼の墓と伝えられているものがいくつもあります。
このような噂が立った理由は、
・秀頼の最期を誰も見ていない
ということからです。
豊臣秀頼は死んでいなかったという話が、天草四郎は秀頼のご落胤という伝説に繋がったのではないでしょうか。
きょうのまとめ
天草四郎の伝説と豊臣家の関係について、いかがでしたか?
天草四郎が秀頼のご落胤である可能性は低いとの見解が一般的ですが、
可能性がゼロというわけではありません。
そこが歴史の面白さですよね。
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