ゴッホとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

ゴッホと聞けば、どんなイメージが思い浮かびますか?

ひまわりの絵を思い浮かべたり、片耳を切った後の自画像を思い浮かべたり。

要するに、『激しい画家』のイメージが強いのではないでしょうか?

確かに激しい一面を持っていたのですが、画家になるまでには、画商として働いたり、牧師を目指したり、伝道活動をしたり・・・と、画家になるまでは紆余曲折で、自分探しの旅が長かったのです。

そして有名になったのは、彼が死んでからでした。

ゴッホの知られざる一面をを見ていきましょう。

 

ゴッホはどんな人?

プロフィール

『自画像』(1887年春)
出典:Wikipedia

  • 出身地:オランダ・フロートズンデルト
  • 生年月日:1853年3月30日
  • 死亡年月日:1890年7月29日(享年37歳)
  • ポスト印象派の画家

 

ゴッホ 年表

年表

西暦(年齢)

1857年(4歳)弟、テオが生まれる

1869年(16歳)ハーグのグーピル商会に勤務

1874年(21歳)ウジェニー・ロワイエに結婚を申し込むが断られる

1876年(23歳)グーピル商会をくびになる

1877年(24歳)伝道師学校に入学する

1878年(25歳)伝道師の試験をあきらめ、ベルギーのボルナージュの炭鉱町で伝道活動開始

1879年(26歳)教会から伝道活動を禁止される

1880年(27歳)画家になることを決意する

1881年(28歳)エッテンの両親の元に戻る。ケーに好意をよせるが失恋に終わる

1885年(32歳)ベルギーのアントワープでアトリエを持つ

1886年(33歳)パリのテオの元に行く

1887年(34歳)ゴーギャンなどの印象派の画家と知り合う。浮世絵に関心を持つ

1888年(35歳)南フランス、アルルへ旅立ち、黄色い家に住む。ゴーギャンと暮らしはじめる。自らの耳を切る。ゴーギャン、パリに戻る
  
1889年(36歳)テオ結婚する。自ら精神病院に入る

1890年(37歳)医師のガシェを頼ってオーヴェールへ行く。ピストル自殺を試みて、テオに見守られながら死ぬ

1891年テオ、亡くなる

 

ゴッホの生涯

画家になるまで紆余曲折、画家活動は10年だけ

ゴッホが画家として活躍したのは、27歳から37歳のたった10年でした。

27歳に画家になるまで遅咲きといったイメージですが、それまで彼は何をしていたのでしょうか?

自分探しが長かったのです。

画商で働いたのですが、下宿屋の娘に恋して失敗に終わり、それがきっかけで不良店員になり、神に救いを求め、先生になったり。

かと思えば牧師を目指しましたが挫折して、さらに伝道活動もしましたがうまくいかず。

紆余曲折を経て、やっと画家になったのです。

激しすぎるゴッホの生涯を支えた需要人物とは?

ゴッホには彼の生涯を支えた重要人物がいます。

それは弟テオでした。

激しすぎる兄を時には友達として、時には伴侶のように、また時には同じ画商の同僚として。

常に弟のテオは、兄のゴッホを支え続けました。

彼がいなければゴッホは激しすぎる気性をさらに爆発させて、画家としての才能を開花させることが難しかったと推測されます。

画家として認められたのは亡くなってからだった

最終的にゴッホはピストル自殺で亡くなってしまうのですが、

結局彼が生きている間は、画家として認められることはありませんでした。

彼の死後、画家としての名をはせるに貢献したのは、テオの妻と子供の尽力により、偉大な画家としてゴッホの名が知られるようになったのです。

彼らは粘り強くゴッホの展覧会を開き、少しずつゴッホの絵の人気が高まってきたのでした。

 

ゴッホに関するエピーソード

不器用すぎる恋愛、かけひきがヘタすぎるゴッホ

孤独だったゴッホは人一倍家族を求めていたのに関わらず、好きになった人からは逃げられてばかりでした。

激しすぎる気性は好きとなった女性に対しても直球すぎて、女性はひいてしまうのでした。

思い込みも激しいので、それも引いてしまう原因になったのでしょう。

下宿屋の娘、未亡人である従姉妹への失恋、なにもかもうまくいきませんでした。

浮世絵にはまって、日本大好きゴッホ

当時、日本ブームがヨーロッパで起きていました。

ゴッホも浮世絵のとりこの一人で、彼の絵にはところどころ浮世絵に影響されたとみられる部分が垣間見えます。

ゴーギャンの一言で自らの耳を切る

南フランス、アルルにアトリエを構えたゴッホのもとに、ゴーギャンが訪ねてきました。

思い込みの激しいゴッホは、ゴーギャンがずっと共同生活を送ってくれると思いましたが、ゴーギャンにとっては一時滞在に過ぎませんでした。

二か月ほど続いた共同生活では、何度も対立しました。

対立の中で生まれた

「役に立たない耳なら切り落としてしまえ」

というゴーギャンの何気ない喧嘩の売り言葉に、本当にゴッホは自らの片耳を切り落としてしまうのでした。

 

きょうのまとめ

あまりにも激しすぎて不器用すぎる性格だからこそ、

うまくいかない悲しみや怒りを、絵に投影してきたゴッホ。

スムーズに画家になったのではなく、紆余曲折を経てきたからこそ、偉大な作品が生まれたともいえます。

この機会に、何気なく触れるゴッホの絵を、奥深く見ることができるのではないでしょうか?

ゴッホとは?簡単にまとめると

① 画家になるまで紆余曲折、画家活動は10年だけ

② 激しすぎるゴッホの生涯を支えた弟の存在

③ 日本、大好き人間

④ ゴーギャンの一言で自らの耳を切る

⑤ 画家として有名になったのはゴッホの死後だった

と言えるのではないでしょうか。

 

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