五稜郭の戦いでは新政府軍と戦いながら、その後新政府に仕えた榎本武揚。
主君を裏切ったという見方をする人も多いようですが、
この記事を読んでいただければ榎本武揚のイメージは変わるかと思います。
榎本武揚とはどんな人物だったのか、簡単ではありますがご紹介していきます。
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榎本武揚はどんな人?
- 出身地:江戸(現在の東京都)
- 生年月日:1836年10月5日(天保7年8月5日)
- 死亡年月日:1908年10月26日(享年72歳)
- 幕末・明治の軍人、政治家。新政府軍と戦って敗北するも、後に要職を歴任した人物。
榎本武揚 年表
西暦(年齢)
1836年(0歳)江戸・下谷で誕生(幼名:釜次郎)
1856年(20歳)長崎海軍伝習所入所
1862年(26歳)オランダ留学
1867年(31歳)帰国
1869年(33歳)箱館を占領するも、新政府軍に降伏
1872年(36歳)開拓使に出仕
1875年(39歳)樺太・千島交換条約を締結
1880年(44歳)海軍卿に就任
1885年(49歳)初代逓信大臣就任
1889年(53歳)文部大臣就任
1891年(55歳)外務大臣就任
1894年(58歳)農商務大臣就任
1908年(72歳)永眠
幕臣から明治新政府の要職に
榎本武揚は1836年、幕臣・榎本武規の次男として誕生しました。
長崎の海軍伝習所で学び、海軍の幹部候補としてオランダへ留学します。
現地では軍事技術だけではなく、国際法の知識なども得ることになります。
幕府の命を受けて留学した武揚でしたが、帰国すると肝心の幕府は虫の息。
明治新政府の支配下に入ることを拒んだ武揚らは、
旧幕府艦隊を引き連れて蝦夷地(現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと脱出しました。
北の大地で、明治政府に対抗できるような政権を打ち立てようとしたのです。
しかし、五稜郭の戦い(箱館戦争)では新政府軍に敗北。
降伏した武揚らは、牢獄生活を送ることになります。
反乱軍を指揮する立場にあった武揚は、新政府に殺されると思いきや釈放されます。
それどころか明治政府の要職に招かれ、活躍しました。
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榎本武揚にまつわるエピソード
それでは、ここからは榎本武揚の具体的なエピソードについてご紹介していきますね。
榎本武揚の人間性が、垣間見えてくるかもしれません。
五稜郭の戦いで本当は死ぬつもりだった
当時、日本最強の軍艦・開陽丸を率いて、蝦夷地へ逃れた榎本武揚ら旧幕府勢力。
そこで行われた選挙によって、榎本武揚が総裁に決定しました。
箱館に誕生した政権は、蝦夷共和国という言い方をされることがあります。
この政権を守るため、榎本武揚はオランダで学んだ国際法を最大限に利用することにしました。
自分たちは「国家」に準じる地位であることを、イギリス・フランスに対して認めさせようと働きかけたのです。
しかし開陽丸を事故で失った彼らに対して、新政府軍は総攻撃をかけました。
力が弱まった旧幕府勢力に対して、新政府側は降伏勧告を出します。
ですが榎本武揚はこれを拒否、
その代わりに『海律全書』という海に関する国際ルールが書かれた本を、政府側の使者に渡したといいます。
いよいよ追い詰められた武揚は自刃しようとしますが、近習(近くに仕えるもの)に止められてしまいます。
降伏を受け入れることにした彼らは出頭し、東京の牢獄に収監されました。
榎本武揚が獄中で綴った詩の中には、「国為」という言葉が出てくるそうです。
幕府のおかげで留学させてもらった武揚は、幕府がなくなった今、新政府の下でその恩を返そうと考えていたのではないでしょうか。
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外交のプロとして
新政府に仕えることになった榎本武揚は、才覚を活かして活躍します。
中でも最も有名なのは、樺太・千島交換条約の締結ではないでしょうか。
樺太という場所は、もとは日本とロシアの雑居地で、明確な国境は引かれていませんでした。
しかし、急にロシアが樺太全体を支配下に入れようと動き始めたのです。
危機感を抱いた政府は、武揚を特命全権公使に任命しました。
これは非常い難しい仕事で、もし上手くいかなければ弱腰外交などと言われ、日本国内で大きな反乱も起きる可能性もありました。
まさに新政府の威信をかけた条約だったのです。
ですが駆け引きが上手な武揚は、ロシアの内部の情報入手の甲斐もあり、見事にこの大仕事を成し遂げました。
北方領土問題が未だ解決していない今日。
もし榎本武揚がいてくれたら、どんな外交を行うのだろうと考えたくなりませんか?
きょうのまとめ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
榎本武揚とは?
① オランダ留学で海軍の技術や法学などを学んだ
② 五稜郭の戦いで敗れたときは、死ぬつもりだった
③ 命を助けられ、学んだ知識を国のために役立てようとした
④ ロシアとの外交を任され、樺太・千島交換条約を結んだ
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