宇喜多秀家と言えばどんなイメージが浮かびますか?
「関ヶ原の戦いで奮闘した武将」のイメージが強いでしょうか。
石田三成、大谷吉継と並び、西軍で積極的に戦った武将です。
最後は八丈島に流され、一生を終えます。
今回は宇喜多秀家とはどんな人物だったか、まとめます。
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宇喜多秀家とはどんな人?
- 出身地:備前国(岡山県)岡山城
- 生年月日:1572年
- 死亡年月日:1655年(享年83歳)
- 関ケ原の戦いに敗れながらも生き残った悲劇の武将
宇喜多秀家 年表
宇喜多秀家の生涯を年表でみていきましょう。
西暦(年齢)
1572年(0歳)備前・岡山城で城主・宇喜多直家の次男として生まれる。
1582年(10歳)父・直家の死にともない、宇喜多家を相続。
1586年(14歳)羽柴秀吉の養女・豪姫を正室に。一門衆(重臣のこと)の扱いを受ける。
1590年(18歳)小田原攻めに水軍を率いて参戦。豊臣秀吉に岡山城大改築を命じられる。(1597年に改築は完了)
1592年(20歳)文禄の役で朝鮮半島に渡り、京畿道の平定に当たる。
1594年(22歳)参議から従三位中納言に昇進する。
1598年(26歳)豊臣秀吉が世を去る。
1600年(28歳)関ヶ原の戦いに参戦し、西軍の主力として戦い敗戦。薩摩(鹿児島県)に落ちのび島津家の保護を受ける。
1603年(31歳)島津家より身柄を徳川家に引き渡される。
1606年(34歳)八丈島へ配流となる。
1655年(83歳)八丈島にて死去。
豊臣家大事の人だった!?
幼くして宇喜多家を継ぎ、豊臣家のために奮闘した秀家。
秀家の「秀」の字は秀吉の一字を賜ったと伝えられています。
外様でありながら豊臣家の一門衆の扱いを受け、五大老の一人になります。
文禄の役では総大将として朝鮮半島に渡っています。
秀吉からの信頼が厚かったのでしょう。
秀家は秀吉に引き立ててもらい、出世街道をばく進しました。
彼の頭の中は「秀吉公亡きあとは秀頼君の天下」だったはずです。
徳川政権を認める気など、毛頭なかったのでしょう。
関ケ原の戦いとその後の人生
ここでは関ケ原の戦いとその後の彼の人生を追ってみます。
関ヶ原の戦いに敗れる
関ヶ原の戦いでは多くの軍勢を率いて西軍に身を投じます。
東軍最強の福島正則勢と激闘を繰り広げ、一時は互角以上の戦いをしていました。
しかし、小早川秀秋の裏切りにより事態は暗転します。
側面を突かれて、宇喜多勢は壊滅。
秀家はかろうじて戦場を脱出します。
島津家を頼って、薩摩国に落ちのびることになります。
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八丈島での生活
島津家もやがて徳川幕府に臣従するようになります。
秀家の身柄は徳川幕府に引き渡されました。
本来なら斬首のはずでしたが、島津家や縁戚の前田家からの働きかけがありました。
秀吉の養女になった加賀前田家の豪姫を正室に持った秀家。
豪姫は秀家と自分の息子2人のために尽力します。
彼が罪一等減じられたのは、豪姫の力が大きかったと思います。
八丈島へ流罪になった秀家は、亡くなるまでの50年あまりを八丈島で暮らします。
暮らしぶりは大変質素で、ある時彼は幕府の代官から食事に招かれます。
その時、家来に食べ物を持ち帰ったと言われています。
大名育ちの彼にとっては決して恵まれた環境ではなかったようです。
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きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございます。宇喜多秀家についていかがでしたでしょうか。
宇喜多秀家とは?
① 豊臣家に最後まで忠誠を誓った律儀な武将
② できた妻に恵まれた人
③ 歴史に翻弄された悲劇の武将
強い者が天下を取るというのが、戦国の世。
徳川政権誕生を支持する目ざとい大名もたくさんいたなか、
豊臣政権に忠義を尽くした武将、秀家。
彼も歴史に翻弄された武将かもしれませんね。
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