黒田官兵衛はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

近年の大河ドラマなどの影響でその名前くらいなら知っている人も多い

黒田官兵衛くろだかんべえ

本名は黒田孝高よしたか、隠居した後は黒田如水じょすいと名乗りました。

ここでは通りのよい黒田官兵衛で統一して彼がどんな人物だったか、

その生涯を振り返ってみましょう。

 

黒田官兵衛はどんな人?

プロフィール
黒田官兵衛

出典:Wikipedia

  • 出身地:播磨国 姫路
  • 生年月日:1546年12月22日
  • 死亡年月日:1604年4月19日(享年59)
  • 忠心と野心を併せ持つ実力派戦国軍師

 

黒田官兵衛 年表

年表

西暦(年齢)

1546年(1歳)播磨国姫路城主・小寺職隆もとたかの嫡男万吉として誕生。

1567年(23歳)播磨志方城主・櫛橋氏くしはししの娘みつを正室に迎える。家督を継いで姫路城主となる。

1569年(25歳)姫路城に攻め入ってきた赤松政秀の兵を10分の1の兵力で撃退し、世に官兵衛の名を轟かせる。

1578年(34歳)主君信長への謀反の噂のある荒木村重の説得に単身乗り込むが捕縛され、約1年間幽閉される。

1580年(35歳)三木城陥落。1万石を賜り、大名となる。

1582年(38歳)中国大返しを秀吉に勧める。山崎の戦いで勝利。

1587年(43歳)秀吉から、豊前6郡を与えられ、馬ヶ岳城(行橋市)に入る。

1189年(45歳)家督を長政に譲る。名を黒田如水と改める。

1600年(56歳)関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定する。嫡男・長政は関ヶ原で活躍し、筑前52万石が与えられる。

1601年(57歳)福崎(福岡市)の地を福岡と改称し、福岡城の築城を始める。

1604年(59歳)4月、伏見藩邸にて死去。崇福寺(福岡市)に葬られる。

 

主君への貢献と懐の野心。夢は破れて福岡へ

兵の少なさを問題にしない奇襲作戦の成功など、黒田官兵衛の奇抜な戦略とその実力は信長に高く評価されました。

羽柴秀吉の元でも与力(大きな大名に加勢する武将のこと)として活躍。

1578年に謀反を起こした荒木村重の説得に乗り込んだ際、逆に1年間幽閉されます。

しかし生還後も

・鳥取城、備中高松城の攻略

・小田原城無血開城

などで武功を挙げます。

そして1582年。

本能寺の変での信長の死の直後、秀吉は官兵衛の進言で急いで毛利輝元と和睦。

備中高松城から「中国大返し」を決行。

(主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動)

京で明智光秀を討ち取ることができました。

その後秀吉は官兵衛の進言の非情なほどの的確さに、かえって彼を警戒したと言います。

実際、秀吉の死後に関ヶ原の戦いで家康側についた官兵衛は、混乱に乗じて九州を席巻し、その後中央で天下をものにしようと画策します。

しかし、皮肉にも息子の長政の活躍によって関ヶ原本戦はたった1日で終了。

そのため天下取り計画は実行できず、官兵衛はそのまま隠居してしまいました。

のち戦功で52万石を与えられた長政とともに筑前へ向かいます。

明治維新まで続く福岡藩の祖としてその礎を築き、1604年、京都の伏見藩邸で死没。

享年59。

 

黒田官兵衛にまつわるエピソード

官兵衛に関する逸話の多くは官兵衛の先見性や計画性、野心に関係するものが伝わっています。

秀吉、官兵衛を警戒する

秀吉はあるとき、家臣に尋ねます。

秀吉
わしの死後、天下を取るのは誰か?

その問いに徳川、前田、上杉、毛利といった大名の名が挙げられましたが、秀吉は笑ってそれを否定しました。

秀吉
おそらく、官兵衛だ

この話を伝え聞いた官兵衛は自分に野心がないと示すため隠居を決意。

しかし、それは許されませんでした。

中国大返しや四国征伐、九州平定などの大きな功労のあとにも、官兵衛には冷たい秀吉。

一国を与える約束も守られず、都から遠く離れた豊前6郡の12万3000石を与えられたのみでした。

秀吉の警戒心について悟っていた官兵衛はその冷遇に甘んじていたといいます。

死の床にあっても黒田家の未来のために

晩年、病床の官兵衛は些細なことでよく癇癪を起こし、家臣は困り果てていました。

それを息子の長政が注意したところ、彼は長政に囁きました。

黒田官兵衛
家臣たちは、この私が死ねばほっとして自然にお前を慕い、従うようになる。そのためにわざと怒っているのだ

と。

死ぬ間際まで黒田家、福岡藩の行く末のための策を労した官兵衛でした。

辞世の句

おもひおく言の葉なくて

つひに行く

道はまよはじなるにまかせて

「この世に思い残すことはもう何もない。今は迷うことなくなるままに旅立つだけ」

官兵衛は息子長政をはじめ重臣を枕元に呼び、この辞世を口にしてその余韻が絶えないうちに息を引き取ったということです。

「なるにまかせて」逝ってしまった官兵衛。

「思い残すこともなく、道を迷うことがない」という自負があったからこそ自信を持って最後に自然の流れに身を任すことができたのかもしれません。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきありがとうございました。

黒田官兵衛とは?簡単にまとめます。

① 天下取りの野心を見え隠れさせながら主君に仕えた天才軍師

② 死の直前まで黒田家の未来への戦略を持ち続けたリアリスト

③ やれることは実行し、思い残すことなく死んでいった男

その他にも黒田官兵衛にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku