ジャン・シベリウスとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

フィンランドを代表する、国民的音楽家の

ジャン・シベリウス

祖国を愛し、その自然や伝統を自らの作品に反映したことから国民楽派に位置しています。

ジャン・シベリウスとは一体どの様な人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、主な功績やエピソードと共に見ていきましょう。

 

ジャン・シベリウスはどんな人?

プロフィール
ジャン・シベリウス

ジャン・シベリウス
Jean Sibelius
出典:Wikipedia

  • 出身地:フィンランド
  • 生年月日:1865年12月8日
  • 死亡年月日:1957年9月20日(享年91歳)
  • 19世紀後半~20世紀前半フィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。

 

ジャン・シベリウス 年表

年表

西暦(年齢)

1865年(0歳)フィンランドのヘルシンキ、ハメーンリンナで誕生。

1867年(2歳)医者だった父親を亡くし母親の実家に移住。

1870年(5歳)ピアノを弾き始める。

1875年(10歳)バイオリンとチェロによる室内楽曲《水滴》を作曲。

1885年(20歳)ヘルシンキ大学法学部に入学。

1886年(21歳)同大学を退学し、ヘルシンキ音楽院で作曲とバイオリンを学ぶ。

1887年(22歳)弦楽四重奏団の第二バイオリン奏者に就任。

1889年(24歳)音楽院を卒業後、政府からの奨学金を得てベルリンに留学し作曲を学ぶ。

1890年(25歳)同じく奨学金でウィーンに留学し作曲とオーケストラ、管弦楽曲について学ぶ。

1891年(26歳)フィンランドに帰国。母校の音楽院で作曲とバイオリンを教える。

1892年(27歳)デビュー作《クレルボ交響曲》が大ヒットとなり、音楽家としての地位を確立する。

1897年(32歳)国家からの終身年金を受け取る。イギリスやドイツに演奏旅行し自ら指揮するようになる。

1899年(34歳)愛国歴史劇の音楽を担当し、交響詩《フィンランディア》を作曲。

1900年(35歳)パリ万国博覧会でヘルシンキ交響楽団を率い、自作を披露する。《祖国に》を作曲。

1901年(36歳)音楽院での教員生活を退職。《交響曲第2番》を作曲。

1904年(39歳)ヘルシンキ郊外のヤルウェンパーに別荘を建て移住し、生涯住み続ける。

1905年(40歳)《バイオリン協奏曲》の初演。

1907年(42歳)《交響曲第3番》を初演。

1908年(43歳)のどの腫瘍摘出手術を受ける。

1911年(46歳)《交響曲第4番》を作曲。

1914年(49歳)アメリカに演奏旅行。世界的にも名声を得る。

1915年(50歳)誕生日が国を挙げての祝典となる。《交響曲第5番》を作曲し初演を自ら指揮。

1923年(58歳)《交響曲第6番》、翌年に《交響曲第7番》を作曲。

1929年(64歳)バイオリンとピアノ曲《三つ小品》、ピアノ曲《五つの小品》を作曲。以降作曲意欲が衰える。

1957年(91歳)脳出血により死去。アイノラの庭に埋葬される。

 

ジャン・シベリウスの生涯

ここからは早速、ジャン・シベリウスの功績について見ていきましょう。

学びの日々

1865年、フィンランドの首都ヘルシンキに誕生したジャン・シベリウス。

彼の両親は共に医者の家系であり、彼は姉と弟と共に育ちます。

しかし2歳の時に父親が借金を遺して死去すると、家族は母方の祖母の家に移住しました。

幼少の頃よりピアノや音楽に慣れ親しんだジャン・シベリウスは、10歳の時には自ら作曲を行うようになります。

さらに叔父から譲り受けたバイオリンには特にのめり込み、20歳の頃に入学したヘルシンキ音楽院では、プロのバイオリニストを目指していました。

今でこそ作曲家として名を遺していますが、学生時代は楽団でバイオリニストに選出されるなど、主に演奏者として評価されていたのです。

しかし、やがてバイオリニストとしての自分の能力に限界を感じると、本格的に作曲家としての勉強に専念することになりました。

音楽院卒業後には、国からの奨学金を得て音楽の都とも言われるベルリンやウィーンに留学

同時代の著名な音楽家たちに師事し、本場の音楽に触れることで自らの感性にも磨きをかけていったのでした。

愛国心


留学生活を送る中で、ジャン・シベリウスは次第に祖国フィンランドへの強い愛国心に目覚めるようになります。

フィンランドでの作曲活動を決心した彼は26歳の時に帰国すると、母校で作曲などの講師として働く傍ら楽曲制作に取り組みました。

そしてその名を一躍有名にした一曲が《クレルボ交響曲》です。

実はこの作品は、彼がフィンランドに帰国した翌年に作ったデビュー作でした。

ジャン・シベリウスの作風は、一言で表すと「フィンランドの自然や伝統、民族性を表現している」と言えます。

彼の強い愛国心と、それに付随する物事への視点から生み出された作品は、当時のフィンランド国民の心を掴んだのです。

その背景には、フィンランドが当時置かれていた政治体制が深く関わっていました。

と言うのも、現在のフィンランドはひとつの独立国家として存在している国ですが、1917年に独立するまではロシアの支配下で圧政に苦しんでいたのです。

人々の鬱憤うっぷんが蓄積した中で、ジャン・シベリウスの作る作品たちは、彼らのフィンランド人としての誇りと愛国心を呼び戻す強い光となったのでした。

デビュー作の大成功により、一気に著名な音楽家としての地位を確立したジャン・シベリウス。

さらに彼は、34歳を迎える年に作曲した交響詩《フィンランディア》により、現在まで世界中に強いファンを持つことになります。

これは、彼が愛国的な歴史劇のために依頼されて作った作品でした。

フィンランドの第2の国歌として現在でも愛される、彼の代名詞です。

《クレルボ交響曲》

《フィンランディア》

世界的名声と晩年の空白


ジャン・シベリウスは、他にも第7番まである交響曲やピアノ曲などでも有名です。

イギリスやドイツだけでなく、アメリカへの演奏旅行でも成功を収め、特に《交響曲第2番》などは現在でも世界の楽団によって演奏が行われています。

しかし彼は91年という長い生涯で、亡くなるまでの約30年ほどの期間は、ほぼ完全に音楽家としての活動から身を引いています。

理由のひとつに、長年の作曲生活でどんどん内面世界を重視する傾向が強くなっていたことが挙げられます。

また、時代の流れで次世代の音楽家たちの新たな作風がもてはやされるようになることで、自作との強いギャップに悩むようにもなりました。

若い頃の様に、納得いく作品が作れなくなってしまったのです。

《交響曲第2番》


 

アイノラ


ここでは、ジャン・シベリウスについてもう少し詳しく知るために、彼にまつわるエピソードをひとつご紹介します。

28歳の時にアイノ・ヤルネフェルトという女性と結婚したジャン・シベリウス。

39歳の時には都会の喧騒を逃れるために、家族を連れてヘルシンキ郊外のヤルウェンパーに別荘を建てそこに生涯住み続けました。

この別荘に作られた庭園は「アイノラ」と呼ばれ、現在でも聖地としてファンが訪れています。

それは彼の妻アイノの「土地」を意味しており、アイノ自らが設計したと言われる美しい庭園は、ジャン・シベリウスにとってインスピレーションの源でした。

彼の40代以降の作風は、アイノラで過ごす時間や森への散歩による自然との関りが大きな影響を与えていたのです。

91歳で亡くなると、彼の棺はこの庭園に埋葬されました。

 

きょうのまとめ

今回は、フィンランドの音楽家ジャン・シベリウスについて、その生涯を主な功績やエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ジャン・シベリウスとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① フィンランドを代表する音楽家。

② 愛国心に基づく作品が多く国民楽派に位置する。

③ 代表曲は最初期のものがほとんどで晩年は引退していた。

日本ではあまりメジャーな音楽家とは言えないジャン・シベリウス。

彼の作品には溢れんばかりの愛国心が感じられるものがいくつもあります。

北欧雑貨やライフスタイルなどは日本でも注目されていますが、彼の作品を通し、音楽面からもその文化にアプローチしてみてはいかがでしょう。

 
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