大江広元とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鎌倉幕府の成立当初、文官として組織の基盤づくりに貢献した人物

大江広元おおえのひろもと

朝廷で役人を務めた経験を活かした敏腕ぶりで、将軍・源頼朝から絶大な信頼を得ていました。

戦、戦の軍事政権において、一貫して内政に尽力した陰の功労者といえるでしょう。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、栗原英雄さんが配役に決定!

早くもキーパーソンになることを予感させます。

いったいどんな人物だったのか、しっかりおさらいしておきましょう。
 

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大江広元はどんな人?

プロフィール
大江広元おおえのひろもと

大庭学僊筆『大江広元像』(毛利博物館所蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:京都
  • 生年月日:1148年
  • 死亡年月日:1225年7月16日(享年78歳)
  • 鎌倉幕府の成立に際し、政治体制の基盤を築いた文官。長きに渡り、安定した組織運営に貢献した。

 

大江広元 年表

年表

西暦(年齢)

1148年(1歳)大江維光これみつの子として生まれる。中原広季ひろすえの養子となり、中原姓を名乗る。

1168年(21歳)朝廷へ出仕。天皇への奏文作成、儀式や公事を取り仕切る外記げきの職を務めた。

1184年(37歳)兄・中原親能ちかよしのとり成しで鎌倉へ入り、幕府の家政機関・公文所くもんじょ(のちの政所まんどころ)別当を務める。

1216年(69歳)陸奥国むつのくにの国司を務める。大江姓に改姓。

1217年(70歳)官職を辞して出家。覚阿と名乗る。

1221年(74歳)「承久の乱」にて、朝敵にされることに委縮する幕臣を鼓舞し、幕府を勝利へ導く。

1225年(78歳)死没。

 

大江広元の生涯

以下より、大江広元の生涯にまつわるエピソードを辿ります!

下級公家の家庭に育つ

大江広元は1148年、京都の公家の家系に生を受けます。

広元が誰の子であったかは、史料によってもバラツキがあり…

・藤原光能みつよし(後白河天皇の近臣)

・大江維光これみつ(式部大輔)

・中原広季ひろすえ(明経博士)

という3人の人物が候補に挙がります。

ただ、広元の動向から実父を予想することは可能です。

広元は晩年まで中原姓を名乗っており、1216年、陸奥国むつのくにの国司になった際、大江姓に改姓しました。

このとき

「養父の中原広季には、育ててもらった恩がある。しかし生家である大江家が断絶してしまうのは忍びない」

と、語っているんです。

よって、広元は大江の子として生まれ、そのあと大江と別れた母が中原と再婚。

以降、中原の子として育てられたとするのが妥当と考えられます。

中原は下級公家ではありましたが、明経博士といって、朝廷の官吏を目指す学校の教師をしていました。

そんな養父をもった広元も同じく明経道を志しており、かなり優秀な学生であったという話。

卒業後の任官が保証される得業生に選ばれていたといいますよ。

こうして下級公家ながら、官吏への道を切り拓いた広元。

朝廷では外記げきといって、天皇への奏文作成や、儀式をとり仕切る役目を担っていたといいます。

鎌倉幕府へ出仕


広元が朝廷から鎌倉幕府へと鞍替えした時期は定かではありません。

しかし1184年、幕府の内政を担う公文所くもんじょの別当(長官)となっていることから、この時期に出仕したと考えられます。

兄の中原親能ちかよしが将軍・源頼朝と親しく、朝廷との交渉役を買っていたことから、広元にも声がかかったようです。

以降、晩年まで約30年に渡り、幕政を主導。

その活躍ぶりから、文官としての有能さがよくわかります。

守護・地頭の設置

広元が幕府へ出仕した翌年、頼朝が右大将の官職を賜ったのをきっかけに、公文所は政所まんどころへと改名。

この時期に幕府は、各国の領地に役人を派遣して統治を行わせる守護・地頭の設置を行っています。

室町・戦国時代にも続いていくおなじみの制度ですよね。

頼朝はこれを朝廷に認めさせ、統治の主導権を幕府に手繰り寄せようと考えたのです。

実はこの守護・地頭の制度の策定に、広元が大きく関与しているという話。

もとは朝廷の文官であったため、パイプ役としても機能し、制度導入に際した交渉も買って出たといいます。

・太政大臣・関白を務めた九条兼実かねざね

・権大納言・源通親みちちか

のような有力者ともつながりがあり、かなり重宝されたようです。

下級公家の出身でここまでのコネクションをもっていたのは、広元が朝廷でも有識者で通っていたからなのでしょう。

御家人から将軍への取り次ぎ役を担当


広元は御家人から出た意見を頼朝に届ける、取り次ぎ役となっていたことも知られています。

有名なのは、1185年、頼朝と弟の義経に不和が生じ、義経が鎌倉入りを拒否されたときのこと。

義経はどうにか兄に話を取り付けてくれないかと、広元宛てに書状を送っているのです。

義経が腰越に滞在しているときに書かれたため、「腰越状」と呼ばれているものですね。

つまり広元は幕府でも数少ない、将軍に直接意見することを許された御家人だったということです。

将軍に次ぐナンバー2といっても過言ではないかも?

幕府内での権勢が揺らぐなかでも、安定した組織運営を行った


1200年代に入ると源氏は没落し、幕府の権益は北条氏へ移っていくこととなります。

この混乱の最中でも広元は姿勢を変えず、もくもくと行政を司っていきました。

北条氏を筆頭とした「十三人の合議制」においても、北条時政、義時に次ぐ3番目の序列に。

トップが入れ代わり立ち代わりしても、安定した組織運営がなされていたことは、広元の功績とされています。

ちなみに1232年、頼朝期からの決まり事をまとめた『御成敗式目』が作られたのは、広元が亡くなってしまったことも関係していると考えられています。

優れた行政官がいなくなり、幕府の運営にも手引きが必要になったのですね。
 

「承久の乱」における功績

鎌倉幕府は軍事政権なので、戦功から所領や地位を賜った御家人が多くいます。

一方で大江広元は一貫して文官であり続け、戦とは遠い存在でした。

ただ、実はそんな戦においても、広元が一度だけ活躍したことがあります。

それは1221年に勃発した「承久の乱」において。

すっかり権勢をほしいままにしていた幕府に対し、旧来の院政を取り戻すべく、後鳥羽上皇が挙兵。

このとき、多くの御家人は朝敵となることを恐れ、抗戦を躊躇していました。

その際、尼将軍・北条政子とともに抗戦を主張し、御家人たちを鼓舞したのが広元だったのです。

こうして勢いを取り戻した幕府は官軍に勝利し、以降も隆盛を誇っていくこととなります。

文官にとっては専門外ともいえる戦の場で、このように積極的な姿勢を見せた広元。

常に幕府の行先を案じながら、身の振り方を決めていた人だったのでしょう。
 

きょうのまとめ

大江広元は、室町・江戸と続いていく武家政権の文官としては、元祖とされる存在。

以降、スタンダードとなっていく組織の仕組みを形作った功績は大きいですよね。

最後に今回のまとめです。

① 大江広元は下級公家の家系で育ち、明経道で成績優秀者とされたことで、官吏の道を切り拓いた。朝廷では主に奏文の作成、儀式のとり仕切りなどを担った。

② 兄・中原親能が源頼朝と親しかった縁で、幕府の文官に斡旋される。守護・地頭の設置や、御家人から将軍への意見の取り次ぎなど、重要な役割を担った。

③ 承久の乱では、挙兵して朝敵となることを躊躇する御家人を鼓舞。幕府を勝利へ導き、政権を継続させた。

源頼朝から北条氏へと、幕府内の権益が著しく動くなかで、いずれにおいても重役とされた大江広元。

大河ドラマでも、その政治手腕がどのように描かれるのか要注目です!

 

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