吉子女王とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

大河ドラマの醍醐味は、時代を動かしていった男たちと同時に、

それを支えた妻たちの生き様も描かれているところ!

「表舞台での活躍は、奥さんの支えがあってこそのものだったんだな…」

と、感慨深いシーンが、ところどころありますよね。

2021年にスタートした『青天を衝け』でも、個性豊かな妻たちがさまざまに活躍しています。

今回触れるのはそんななかでも、水戸藩主・徳川斉昭なりあきを正妻として支え、将軍・徳川慶喜の生母となった

吉子女王よしこじょおう

ドラマでは、原日出子さんが担当。

いったいどんな人だったのでしょう?

苦労も多いけど、そのぶんかっこいい!

そんな彼女の生涯に迫ります。

 

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吉子女王はどんな人?

プロフィール
吉子女王

晩年の吉子
出典:Wikipedia

  • 出身地:京都
  • 生年月日:1804年10月28日
  • 死亡年月日:1893年1月27日(享年90歳)
  • 皇族から、第9代水戸藩主・徳川斉昭の正妻となった人物。第10代藩主・徳川慶篤よしあつや、第15代将軍・徳川慶喜の生母。

 

吉子女王 年表

年表

西暦(年齢)

1804年(1歳)有栖川宮織仁ありすがわのみやおりひと親王の第12王女として生まれる。

1830年(27歳)第9代水戸藩主・徳川斉昭と結婚。

1832年(29歳)第10代水戸藩主となる鶴千代麿(徳川慶篤)を出産。

1837年(34歳)のちの第15代将軍となる七郎麻呂(徳川慶喜)を出産。

1860年(57歳)夫斉昭が死没。貞芳院ていほういんと名を改める。

1868年(65歳)藩主・慶篤の病没、将軍・慶喜が謹慎の身となる。水戸藩の内乱も経験。

1873年(70歳)東京の水戸藩下屋敷へ移り住む。

1893年(90歳)死没。

 

吉子女王の生涯と功績

幕末期、皇室から水戸藩へ降嫁した吉子女王。

名家の女性として、誇り高いその生き様はまさに、家系を支える良き妻といったところです。

以下より生涯を物語るエピソードを辿りましょう。

才児を授かり、水戸藩の隆盛を担う


皇族・有栖川宮織仁ありすがわのみやおりひと親王の末娘として生まれた吉子女王の嫁入りは、27歳のころ。

第12代将軍・徳川家慶の正妻となった喬子女王たかこじょおうの仲立ちで、第9代水戸藩主・徳川斉昭のもとへ嫁ぐこととなりました。

このとき、幼名の登美宮とみのみやから「徳川吉子」と名を改めています。

幕末において、斉昭が誰よりも強固に尊王攘夷そんのうじょういを唱えた人物であったことは、『青天を衝け』でもおなじみ。

(※尊王攘夷…天皇を敬い、外国人を追い払う。つまり日本の伝統を守るという考え方)

このように皇室への忠誠心が高い水戸藩へ降嫁が行われることに、当時の仁孝にんこう天皇は大いに喜んだといいます。

ただ、27歳での結婚は、江戸時代の基準で考えればかなりの晩婚。

そのため吉子女王は嫁入りした直後から、

「私はもう、子を産むことが難しいかもしれないので、斉昭には側室をつけてください」

と言っていたといいます。

しかしこれを聞くと、斉昭はより女王を寵愛するようになったという話。

おかげで吉子女王は、嫡男の徳川慶篤や、のちに第15代将軍となった徳川慶喜生母となるにいたりました。

皇室を敬う斉昭と、水戸藩の繁栄を第一に考えた女王の想いが実を結んだ形となったわけです。

将軍・徳川慶喜を育てた「賢夫人」


吉子女王は非常に多彩な人物で、

・書道
・和歌
・楽器(琴や篳篥ひちりき
・刺繍

などに深い見識をもっていました。

その聡明さをもって、側室の子もあわせて計37人いた斉昭の子らに、分け隔てなく熱心な教育を行っていきます。

血気盛んだった夫を支えるため、自らも薙刀を握り武芸に励んだという逸話も。

正室の鏡というか…こんな奥さんだったら、斉昭もそりゃあ大事にするわけですよね。

妻として申し分ない務めを果たすかたわら、趣味の釣りに興じる場面もあったといい、相当にアクティブな女性だったことが伺えます。

また、徳川慶喜が将軍になれたのは、吉子女王がいてこそだったという話もあります。

慶喜が、将軍候補とされる一橋家の養子となったのは、第12代将軍・徳川家慶にその才能を見込まれたがゆえ。

家慶が慶喜に注目するようになったのは、自身の正室・喬子女王の妹の子であるという、親近感が手伝った部分もあると考えられるのです。

慶喜が将軍にならなければ、その家臣である渋沢栄一の出世もありませんでした。

そういった観点から、吉子女王もまた、『青天を衝け』に欠かせない人物だといえますね。

激動の時代を過ごすことに…

徳川慶喜

このように、幕末期の水戸藩の隆盛に大いに貢献した吉子女王。

反面、その行く末は報われなかったと言わざるを得ません。

熱心に攘夷を唱えた夫斉昭は、1859年、大老・井伊直弼なおすけ「安政の大獄」永蟄居えいちっきょに処され、翌年に無念の死を遂げました。

(※永蟄居…無期限の謹慎)

以降、斉昭の求心力を失った水戸藩は、攘夷派と保守派で真っ二つに割れ、内乱へと突入していきます

(「天狗党の乱」「弘道館戦争」など)。

藩主の慶篤はこれをうまく治めることができませんでしたが、女王は後見として必死に支えたという話です。

1868年には、心労から慶篤が亡くなり、水戸藩は藩主不在の状態となりました。

一方で将軍になっていた慶喜は、戊辰戦争で朝敵に…。

生家である皇室とも疎遠となり、水戸藩の混乱もまだまだ収まらない。

この時期の吉子女王には、相当な重圧がかかっていたのではないでしょうか。

そんななかでも、徳川慶喜と離れ離れになってしまった正室・美賀君が、慶喜の暮らす静岡へ移れるよう取り計らうなど、子息には変わらない配慮を見せています。

穏やかに暮らした余生

ようやく落ち着いたのは、1873年ごろの話。

新しく水戸藩主、水戸藩知事を務めていた徳川昭武あきたけの世話になり、東京の旧水戸藩下屋敷で暮らすようになります。

以降は有栖川宮家の子孫とも行き来するようになり、皇室との親交も回復

慶喜のもとにも訪れ、一緒に静岡を観光をしたりなど、1893年に没するまで、穏やかに暮らしたといいます。

90歳まで目立った病気もなく生きたわけですから、それはもう大往生ですよね。

ちなみに死後の「文明夫人」という贈り名は、徳川斉昭が生前からずっと温めていたもの。

やはり、斉昭から無類の愛を受けたことが、激動の時代を生きることとなった吉子女王を支えていたのかもしれません。

 

きょうのまとめ

幕末屈指の行動力を発揮した徳川斉昭に嫁ぎ、妻として申し分のないサポートをしていった吉子女王。

斉昭の死後も、お家のために奮闘する良妻ぶりは変わりませんでした。

実子の徳川慶喜は結果的に敗者になってしまったものの、家康の再来とまで呼ばれた逸材。

それもひとえに、吉子女王という母あってのものだったことがわかりました。

最後に今回のまとめ。

① 皇室出身の吉子女王と、勤皇家の徳川斉昭は晩婚でも仲睦まじかった。結果、第10代藩主・慶篤や、第15代将軍・慶喜などの才児を授かることに。

② 多彩な分野に見識をもつ吉子女王は、子息への教育にも熱心だった。また、第12代将軍・家慶の正妻・喬子女王の妹であったことが、慶喜が将軍となる足掛かりになったともされている。

③ 斉昭の没後、水戸藩は内乱に荒れ、将軍家は朝敵に。子息たちを必死で支えた吉子女王の幕末期の苦心は計り知れない。

現代では社会に出て活躍する女性も多いですが、吉子女王の生き様を見ていると

妻として夫をサポートする、昔ながらの女性像もまた、同じように尊いものだと感じさせられます。

 
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