第15代将軍・徳川慶喜の正妻
美賀君。
大河ドラマ『青天を衝け』では、元AKB48の川栄李奈さんが演じています。
渋沢栄一から見れば、主君となるその人の妻。
作中序盤にて、早くも情緒不安定なキャラクターが露わになり、注目している人も多いのでは?
実はそうなってしまうのも無理がないぐらい、美賀君はいろいろと複雑な事情を抱えた人だったりします。
慶喜との夫婦仲がうまくいったかというと、それもまた微妙。
登場人物としては非常に気になる存在ですよね。
美賀君とは、いったいどんな人物だったのか。
ドラマに先駆けて、史実の人物像をおさらいしておきましょう!
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美賀君はどんな人?
- 出身地:京都
- 生年月日:1835年9月11日
- 死亡年月日:1894年7月9日(享年60歳)
- 第15代将軍・徳川慶喜の正妻。夫とは長く別居を強いられ、生涯、どこか寂しい夫婦生活を送ることとなった。
美賀君 年表
西暦(年齢)
1835年(1歳)権中納言・今出川公久の長女として生まれる。
1853年(19歳)関白・一条忠香の養女となり、一橋慶喜と婚約。
1855年(21歳)江戸へ下向。一橋慶喜と結婚する。
1859~1868年(25~34歳)慶喜の謹慎、上洛などで別居生活となる。
1869年(35歳)静岡へ転居し、慶喜と共に暮らすようになる。
1894年(60歳)乳がんを患い、治療のために東京へ移り住む。同年死没。
美賀君の生涯
美賀君は、将軍の妻としては報われない生涯を送った人物。
ここからは、その一部始終を物語るエピソードを辿っていきましょう。
代役で一橋家へ嫁ぐことに
1835年、美賀君は権中納言・今出川公久の娘として、京都にて生まれました。
幼名は今出川延君、のちに一条省子と名を改めます。
このように、長らくまったく別の名前を名乗っており、美賀君と名乗るのは明治維新よりもあとの話。
そんな美賀君は19歳のころ、のちに将軍となる一橋慶喜と婚約することとなるのですが、実はこれがけっこう訳ありな婚約でした。
というのも、慶喜は美賀君と婚約する以前、千代君という婚約者がおり、その婚約が破綻したため、美賀君に話が回ってきた経緯があるのです。
千代君は関白・一条忠香の娘で、御三卿の一橋家へ嫁ぐのに相応しい家格の女性。
(※御三卿…徳川宗家に将軍の跡取りがいない場合、次期将軍候補を挙げられる家柄)
当初は6歳と幼かったため、時期を待って嫁入りすることになっていました。
しかし、その間に天然痘を患い、完治したものの顔に疱疹が残ったため、一橋家に嫁がせることはできないとされてしまったのです。
公家から徳川家への降嫁は伝統的なもので、体裁を気にする側面があったゆえのこと。
ちょっと残酷な話ですよね…。
ここで
「誰かほかにいないか?」
と、代役として白羽の矢が立ったのが美賀君でした。
美賀君は慶喜の妻として相応の家格を得るため、一条忠香の養子となったうえで婚約。
江戸へ下向し、結婚生活を送るようになるのはそれから2年後の1855年、
美賀君21歳、慶喜19歳のころの話でした。
このような経緯から、美賀君には
・千代君は夫よりずっと若かったけど、自分は2歳年上。若くない…
という劣等感があります。
このことが、慶喜との夫婦生活に波乱を呼び起こすこととなるのです。
嫉妬に狂って自殺未遂
紆余曲折を経て、慶喜の正妻となった美賀君。
しかし肝心の夫婦仲はなかなかうまくいきませんでした。
幕末のこの時期といえば、幕府はペリー来航などで海外列強への対策を問われ、多忙を極めていたころ。
慶喜も駆り出されることが多く、夫婦らしい時間もなかなか設けられていなかったようです。
さらに一橋家には、慶喜の義祖母にあたる徳信院という女性がおり、慶喜はこの人とばかり懇意にしていました。
ただでさえ職務が忙しいのに、それ以外の余暇も徳信院の部屋に足しげく通い、美賀君のことなどお構いなし。
徳信院は祖母といっても、慶喜とは7つしか歳が変わりませんでしたから、美賀君はふたりの恋仲を疑うようになります。
劣等感を抱きながらお嫁にきているうえに、夫からぞんざいな扱いをされてしまっては、疑念を抱くのも無理はありませんよね。
慶喜と徳信院が謡の稽古をしているところに乱入して喚き散らす。
挙句の果てには、自殺未遂をしてまで夫の気を引こうとする。
『青天を衝け』6話でも描かれた、そういった彼女の情緒不安定な姿には、このようにいたたまれない背景があったのです。
慶喜との別居生活
そんな感じで嫁入り早々、一橋家を大いに騒がせた美賀君ですが、彼女の寂しい日々はまだまだ続きます。
1859年のこと、大老・井伊直弼の政策「安政の大獄」によって、慶喜が謹慎の身に処され、妻の美賀君さえも一切会うことができなくなってしまうのです。
慶喜は、日米修好通商条約の交渉に際し、井伊が天皇の許可なく条約を締結してしまったことに反発。
対立した結果、不時登城(登城の許可が出ている日以外に江戸城に入った)の罪を着せられてしまいました。
のちに、井伊が反対派に暗殺されたことで謹慎は解かれるのですが、
1862年以降、「公武合体」を実現するため、慶喜はほとんどの時間を京都で過ごすことになります。
(※公武合体…朝廷と幕府が協力して対外政策を行おうという方針)
1866年に将軍に就任した折も、慶喜は江戸に戻っていません。
将軍の正妻である美賀君は、本来なら江戸城の大奥を取り仕切る役を担う立場。
しかし、慶喜が江戸に戻らないとすれば、そういうわけにもいかず、美賀君は「将軍の妻なのに一度も大奥に入らなかった」という、異例の経緯の持ち主なのです。
維新後も、慶喜は静岡へ移封となったため、美賀君とは会わず。
美賀君は江戸の水戸藩小石川邸に移り、徳信院や、慶喜の母・吉子女王と共に暮らしていました。
こういった事情から、慶喜と美賀君は幕末期の10年間、夫婦でありながら一切顔を合わしていないのです。
静岡での生活も寂しいものだった?
結婚して間もなく幕末の動乱に苛まれ、夫婦らしい時間をまったく過ごせなかった慶喜と美賀君。
そんなふたりが再び一緒に暮らすようになったのが、慶喜の謹慎が解かれた1869年のことです。
このときは、徳信院と吉子女王の取り計らいによって、美賀君が静岡へ向かうことになったという話。
徳信院とは慶喜との関係を巡ってわだかまりもありましたが、彼女自身はせっかく嫁入りしたのに寂しい生活を送っている美賀君を不憫に思っていたのかもしれません。
ただ、慶喜と暮らすようになってからの美賀君が報われたかといえば、実はこれも微妙なところ。
静岡へ移り住んだ美賀君は、当時35歳。
「お褥御免」といって、30歳を越えた妻は、将軍の寝室のお供を引退することとなっていました。
そのため、慶喜は側室との子作りに専念し、美賀君は相変わらずほったらかしだったというのです。
ちなみに美賀君は、安政の大獄以前に一度、慶喜の子どもを身ごもっており、生後間もなく亡くなってしまう経験をしています。
せっかくできた子どもは亡くなってしまい、夫と会えない生活をしているうちに、ついには生むこともできなくなってしまった。
正妻として、これほど悲しいことはないですよね…。
慶喜が側室とのあいだに儲けた10男11女(!?)は、美賀君のメンツを保つため、すべて彼女が実母ということにされています。
とはいえ、長らく寂しい想いをしてきた彼女の気持ちが、これで晴れたかといえば疑問が残りますね。
美賀君は晩年、自身の妻としての生涯を物語るような、こんな和歌も残しています。
かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき
現代風に訳すと
「別々の道を行くことも、そういうものだと察する。しかし富士の白雪のごとく、名残惜しさは尽きない」
という感じでしょうか。
1894年、美賀君は乳がんを患い、帰らぬ人に。
この句は、その治療のために東京へ戻る際、見送る慶喜に贈られたものです。
山の上の雪のように、溶けることない彼女の未練は、慶喜ともう少し夫婦らしく過ごしたかったという想いだったのかもしれません。
きょうのまとめ
将軍の正妻という名誉ある立場となったものの、終始寂しい暮らしを強いられた美賀君。
幕末の時勢に嫁いだ身としては、それもまた宿命だったのでしょう。
最後に今回のまとめです。
① 美賀君は、一橋慶喜と千代君の婚約破綻に伴い、代役で結婚することとなった。そのうえ、慶喜より年上だったため、妻としては劣等感をもっていた。
② 美賀君は、慶喜が徳信院とばかり仲良くしていたため恋仲を疑い、自殺未遂をしてまで気を引こうとした。
③ 幕末期、慶喜が長らく一橋家を留守にしていたことで、夫婦は約10年間の別居生活となった。
④ 維新後、慶喜の待つ静岡へ移り住むも、すでに「お褥御免」の年齢に達しており、寝室を共にすることはなかった。慶喜はそのぶん側室を寵愛する。
ある種、悲劇のヒロインといえる美賀君。
ドラマでも今後、どのように演じられるのかに期待がかかりますね。
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