渋沢宗助とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、一族きっての豪農として、村を取りまとめていた

渋沢宗助しぶさわそうすけ

渋沢栄一の伯父にあたる人物です。

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、平泉成さんが演じていますよね。

この宗助という人物、なんといっても栄一に負けないぐらいの商才をもっていたりします。

幼少の栄一にも影響を与えており、実は栄一の生涯においてかなり重要な役割を果たした人といえるのです。

渋沢宗助とは、いったいどんな人だったのか、今回はその生涯に迫りましょう。

 

渋沢宗助はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:武蔵国榛沢郡血洗島はんざわぐんちあらいじま村(現・埼玉県深谷市)
  • 生年月日:1795年1月22日
  • 死亡年月日:1871年1月22日(享年77歳)
  • 血洗島村にて、渋沢一族を取りまとめた豪農。養蚕業の大家となり『養蚕手引抄』の出版や、生糸の輸出も行った。

 

渋沢宗助 年表

年表

西暦(年齢)

1795年(1歳)武蔵国榛沢郡血洗島はんざわぐんちあらいじま村(現・埼玉県深谷市)にて、豪農・二代目渋沢宗助政徳の長男として生まれる。

~1832年(~38歳)若くして文武両道を極め、剣術道場や寺子屋を運営する。

1833~1844年(39~50歳)奥州、信州を渡り歩き、養蚕技術を学ぶ。

1855年(61歳)養蚕研究の集大成『養蚕手引抄』を出版。

1859年ごろ~(65歳~)横浜の開港に伴い、生糸の輸出を行う。

1871年(77歳) 死没。

 

渋沢一族きっての豪農

1795年、渋沢宗助は武蔵国榛沢郡血洗島はんざわぐんちあらいじま村(現・埼玉県深谷市)にて、二代目渋沢宗助政徳の長男として生まれます。

「宗助」という名は、彼の生まれた渋沢・東の家ひがしんちの当主に与えられるものでした。

東の家というのは、同じ渋沢姓を名乗る家系と区別するために設けられた家の呼び名。

当時、血洗島村には渋沢姓を名乗る家系が17軒あり、

・東の家
・中の家
・前の家
・新屋敷
・古新宅

というように、家の位置ごとに呼び名を決めていたのです。

渋沢宗家は中の家で、東の家は分家。

しかし、江戸時代初期に中の家は没落し、宗助の代には東の家が村一番の豪農となっていました。

東の家は初代の行商から始まり、二代目で養蚕・藍玉の製造に着手。

(※藍玉…藍染めに使う染料)

これによって繁栄を極め、三代目宗助は渋沢一族を取りまとめる立ち位置となっていたのです。

幼少から文武両道に励んだ宗助は、家業のほかにも剣術道場寺子屋を運営。

まさに血洗島村の顔のような存在だったのです。

 

渋沢栄一との関係

渋沢宗助は渋沢栄一の父・市郎衛門の兄

栄一から見ると伯父にあたります。

市郎衛門は二代目宗助の三男で、当時没落していた中の家を建て直すため、東の家から養子に出されました。

その甲斐あって市郎衛門の代で中の家は再興し、東の家に次ぐ豪農に。

市郎衛門は兄・宗助とともに、一族を取りまとめる役目を担うようになっていました。

宗助は栄一の名付け親でもあり、幼少は書の手ほどきをするなど、なにかと世話を焼いたといいます。

大河ドラマでも、世話焼きな伯父として描かれていますよね。

宗助自身、幼少は叔父の渋沢仁山に儒教を学んだといいますから、一族ぐるみで教育を行うのが渋沢家の慣習となっていたのかもしれません。

 

養蚕技術の大家となる

宗助は40代に差し掛かるころ、さらなる養蚕研究のため、奥州、信州の養蚕家たちを訪ね、修行を行っています。

修行の旅を終えたあかつきには『養蚕手引抄』という、研究の集大成となる書を自費出版し、無料配布しました。

この旅には家業をさらに拡大していく意味も、もちろんあったでしょう。

しかし、宗助のこの動向を見ると、ノウハウを分け与え、多くの人に豊かになってほしいという気持ちのほうが強いように感じますね。

また、日米修好通商条約に基づいて横浜港が開港されると、宗助はいの一番に生糸の輸出へと乗り出しています。

生糸は明治初期の対外貿易において、もっとも需要があった輸出物でした。

政府によって富岡製糸場が建設されたことなどが、その隆盛の証。

宗助は貿易が可能になると同時に、早くもここに目を付けていたのです。

渋沢一族の代表というだけあり、いかにも先見の明をもつ人だったのですね。

こうして蓄えられた富は寺社の修善など、地域貢献に充てられていったといいます。

 

きょうのまとめ

渋沢栄一の伯父にあたる渋沢宗助。

商才に溢れ、努力を惜しまず、後進の育成にも配慮する。

その人となりから、一族が繁栄していったことにも納得させられます。

のちに日本を支えていった栄一にとっても、その影響は大きかったはずです。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 渋沢宗助は渋沢・東の家の当主。村一番の豪農として一族を取りまとめた。剣術道場や寺子屋も運営するなど、村の顔のような存在だった。

② 宗助は渋沢栄一の伯父にあたり、名付け親でもある。幼少は書の手ほどきをするなど、なにかと世話を焼いた。

③ 40代からは各地を巡って養蚕研究に励み、集大成である『養蚕手引抄』を無料配布。生糸の輸出にもいち早く乗り出し、さらなる繁栄を極めた。

幕末の時代は武士の話題が中心で、そのほかの人たちがどのような暮らしをしていたかはあまり注目されません。

しかし、宗助のような当時の農民・商人の生き方にも、知ってみると興味深い部分がたくさんありますよね。

 
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