陸軍将校が1483人もの士官を引き連れて巻き起こしたクーデター未遂「二・二六事件」。
第30代内閣総理大臣・斎藤実は、その渦中で命を落としました。
このほか「シーメンス事件」「帝人事件」…さまざまな不祥事に巻き込まれた斎藤はそのたびに失脚。
それでも這い上がってこれた人望の厚い政治家でした。
どうしてそんなに立派な人が、暗殺されることになってしまったのか?
斎藤実とはいったいどんな人だったのか。
その生涯から人物像に迫りましょう。
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斎藤実はどんな人?
- 出身地:陸奥国胆沢郡水沢(現・岩手県奥州市水沢)
- 生年月日:1858年12月2日
- 死亡年月日:1936年2月26日(享年77歳)
- 海軍大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣を歴任した政治家。粘り強く穏健な政治を行えることで評価された。陸軍将校によるクーデター未遂「二・二六事件」で暗殺される。
斎藤実 年表
西暦(年齢)
1858年(1歳)陸奥国胆沢郡水沢(現・岩手県奥州市水沢)にて、水沢藩士・斎藤耕平の子として生まれる。
1879年(21歳)海軍兵学寮を学年3位の成績で卒業。
1884年(26歳)駐米公使館付武官としてアメリカへ留学。
1888年(30歳)帰国し、海軍参謀本部員となる。巡洋艦「秋津洲」「厳島」の艦長を歴任。
1898年(40歳)海軍大臣・山本権兵衛の推薦により、海軍次官に就任する。
1906年(48歳)第一次西園寺内閣において海軍大臣に任じられる。第一次山本内閣でも続投し、8年の任期を務めた。
1914年(56歳)ドイツの造船会社・シーメンスから、海軍将校が賄賂を受け取る「シーメンス事件」が勃発。斎藤は責任を取り、海軍大臣を辞任する。
1919年(61歳)第3代朝鮮総督に就任。以降8年間、朝鮮民を尊重する文化政治を推し進め、独立運動に荒れていた朝鮮を鎮める。
1927年(69歳)ジュネーブ海軍軍縮会議に全権委員として出席。軍縮に賛成の意向を示す。
1929年(71歳)現地人の渇望により、朝鮮総督に再任される。
1932年(74歳)犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)を受け、元老・西園寺公望の推薦のもと、内閣総理大臣に就任する。
1934年(76歳)帝人株式会社を巡る贈収賄(帝人事件)に際し、政府関係者が関与を疑われる。責任を取る形で斎藤内閣が総辞職。
1935年(77歳)内大臣に就任。
1936年(77歳)天皇親政を掲げる陸軍青年将校らの襲撃を受け、暗殺される(二・二六事件)。
幼少期
1858年、陸奥国胆沢郡水沢(現・岩手県奥州市水沢)にて、斎藤実は誕生しました。
幼少期は寺子屋にてよく学び、後藤新平、山崎為徳と並び、「水沢の三秀才」と称されていたのだとか。
後藤はのちに外務大臣や内務大臣を歴任した政治家、山崎は同志社英学校に進み、「開校以来の天才」と呼ばれた人物です。
そんなふたりにも引けを取らなかった斎藤は、特に儒学に傾倒し、
10歳のころには『論語』や『孟子』を始めとする、古代中国の哲学書をほとんど読破しているほどでした。
そして斎藤が海軍兵学寮に入ったのが1873年、15歳のころの話。
ここで6年間を学び、1879年の卒業時には学年3位の好成績を残しています。
エリート軍人として、華々しい出世街道の幕開けでした。
アメリカ留学
兵学寮で好成績を修めた斎藤は士官のなかでも優遇され、1884年から4年間、アメリカ留学を命じられています。
現地では駐米公使館付武官に就任し、西郷従道や黒田清隆など、当時の政府要人の通訳として活躍しました。
アメリカでの経験が出世のきっかけとなった?
斎藤の英語力は歴代首相でもトップクラスとされており、これは彼が首相まで上り詰めた一因にもなっています。
また、アメリカ滞在時には視察に訪れた山本権兵衛とも親交を深めました。
山本はこのあと海軍大臣・内閣総理大臣となっていく人物。
ここで彼が斎藤と出会ったこともまた、のちの政府の人事に大きな影響を与えることとなります。
体力をつけるためにビールをがぶ飲み!?
アメリカ留学時の斎藤は、細身の体型にコンプレックスをもっていました。
「軍人たる者、もっとたくましくあらねば…!」
みたいな感じですかね?
そのため、斎藤はこの時期に肉体改造を試みているのですが、その方法が荒業も荒業。
ずばり“毎日ビールをがぶ飲みして太る”です。
筋トレとかじゃないんだ…と、思うところですが、
やせ型の人って筋肉になる脂肪がないから、筋トレしてもムキムキにならないんですよね。
そういう意味では斎藤のこの方法は理にかなっている…のか?
ともあれ、斎藤はこの時期にビール作戦を成功させ、大幅な肉体改造を実現したのです。
これは見習っちゃダメですね…。
山本権兵衛との関りで大出世
1888年に帰国すると、斎藤は山本権兵衛の勧めで海軍参謀本部員となります。
そこから巡洋艦「秋津洲」「厳島」の艦長を歴任。
30歳で艦長を務めるのは、当時として異例の人事だったようですよ。
そしてこのあとの斎藤の出世にも、山本の存在は大きく関わってくることとなります。
海軍次官・海軍大臣に就任
1898年、斎藤は第二次山縣有朋内閣において、海軍大臣となった山本権兵衛により海軍次官に任じられます。
ここから8年間、斎藤は海軍次官として山本を補佐。
日露戦争の勝利などに貢献しました。
そして1906年、西園寺公望内閣が成立すると、山本の後釜として海軍大臣に就任します。
海軍大臣を務めた期間も、このあとの第一次山本内閣を合わせて8年。
政策としては、アメリカを仮想敵とした軍艦の大規模整備「八八艦隊計画」などを推し進めました。
この計画には6億もの費用が必要とされたため、このときは先延ばしに終わっているのですが。
そしてこのあと、斎藤は思わぬ形で政界を追放されてしまうこととなります。
「シーメンス事件」による失脚
1914年1月、ドイツの造船会社・シーメンスが日本の海軍将校に賄賂を渡し、取引を有利に運んでいたことが発覚。
海軍出身の首相である山本権兵衛と、海軍大臣の斎藤はその責任を問われることとなります。
これをもって第一次山本内閣は総辞職。
山本と斎藤は予備役に投入され、お払い箱となってしまうのです。
この一連の流れを「シーメンス事件」といいます。
部下の腐敗に足をすくわれる形で、政界のトップからどん底へ。
本人たちに非はなくても、人生何があるかわからないものですね。
辞任となったあとの斎藤は千葉県に別荘を購入し、庭いじりに興じる静かな時間を過ごしていたといいます。
朝鮮総督時代
一度は政界から追放された斎藤ですが、1919年に再起のきっかけが訪れます。
前任の長谷川好道総督の退任を受け、新たな朝鮮総督として白羽の矢が立ったのです。
当時の朝鮮では、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が掲げた『十四箇条の平和原則』の影響を受け、
現地民が日本の統治からの独立を訴える「三・一運動」が盛んになっていました。
長谷川はこれを軍隊の力で制圧しようとし、日朝関係は悪化の一途を辿っていたのです。
これに対し、新たに朝鮮総督となった斎藤は、朝鮮側に寄り添った文化政治を推し進めます。
具体的には、
・日本人と朝鮮人の待遇格差を是正
・朝鮮の文化、風習の尊重
などです。
これらの政策に斎藤がどれほど熱心取り組んだかというと、朝鮮に到着したその日から間髪入れず執務にあたるほどでした。
当時、南大門(現・ソウル)駅にて、斎藤がテロリストに爆弾を投げつけられる事件も発生していますが、その際も一切動じず
と語ったといいます。
死さえも辞さない覚悟で朝鮮の統治にあたったのですね。
その甲斐あって、以降朝鮮は穏やかに鎮められていきました。
このあと斎藤も一度は朝鮮総督を退きますが、その2年後にまた現地民からの要望があり、再任にいたっています。
このように、粘り強く穏やかに事を進められる指導者であった斎藤。
そのことが政界で評価されていた一番の理由なのです。
内閣総理大臣として
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が、陸海軍若手将校の襲撃を受け暗殺されます(五・一五事件)。
これを受け、斎藤実は後任の首相に就任することとなりました。
斎藤が首相に選ばれた理由
斎藤が首相に選ばれたのは、実のところ予定外の人事でした。
もともとは前首相の犬養が総裁を務めていた立憲政友会の鈴木喜三郎が候補に挙げられていたのですが、
陸軍将校たちのあいだで反対の声が上がったのです。
犬養の暗殺事件など、政友会と軍部の確執が影響してのことでしょう。
陸軍将校たちは政友会が政権を独占することをよしとせず、その影響は政界に不穏な空気を漂わせていきました。
そこで元老の西園寺公望が、新たに候補として挙げたのが斎藤だったのです。
前述の朝鮮統治のように、穏やかに事を進められる斎藤ならば、軍部と政党が協力しあう内閣を組閣できる。
西園寺のこの考えから、斎藤は第30代内閣総理大臣に就任するのです。
軍閥中心でもなく、政党中心でもない。
軍部、政党の両方を迎え入れて組閣されたこの内閣は「挙国一致内閣」と呼ばれます。
また斎藤は英語に長けているという点でも、新たな首相としては評価されていました。
そのぶん外交交渉を有利に運べると考えられていたわけですね。
斎藤内閣が行った政策
斎藤内閣が行った政策には
・満州事変の事後処理を行い、満州国を承認する
などがあります。
満州国の承認を巡っては、欧米諸国から反対意見があったため国際連盟を脱退。
この事実は先進国からの孤立を表し、第二次世界大戦で日本が敗戦を喫した遠因ともいえます。
このように、斎藤内閣はいい面も悪い面もありつつ、とりあえずは滞りなく運営されていたのですが…
組閣から2年経った1934年、斎藤はまたしても周囲の起こした不祥事に巻き込まれることとなるのです。
「帝人事件」で総辞職
1927年のこと、帝人株式会社の傘下にあった商社・鈴木商店が倒産。
鈴木商店幹部の金子直吉は、出資者の台湾銀行に帝人株を担保として引き渡すこととなります。
1934年になると、金子はこの帝人株の買戻しを行いました。
その直後に帝人が増資を図ったため、株価が急上昇。
金子はこれを事前に知っていたのではないかという、インサイダー取引を疑われます。
そしてこのとき、株の買戻しを手伝った財界グループ「番町会」に政府関係者が属していたため、内閣は責任を追及されることとなるのです。
これによって1934年7月8日、斎藤内閣は総辞職するにいたります。
ただ…1937年に出された判決の結果、この事件は根拠のないものとして全員が無罪となりました。
そのため、陸軍将校か、これまでの体制維持を望んだ政友会会員による、倒閣の陰謀かも…?という説があるのです。
まるで幕末の動乱のように、政権争いの絶えない時勢だったのですね…。
二・二六事件
斎藤は首相の座を退いた翌年、天皇直属で事務を行う内大臣に任命されました。
完全なとばっちりで首相は辞任となってしまったものの、やはりその能力は天皇をして評価に値するものだったのです。
しかし…このとき内大臣に就いたことが、また斎藤の命運をわける事件へと発展してしまいます。
1936年、陸軍若手将校が1483名の士官を率い、クーデター未遂を謀る「二・二六事件」が勃発。
その渦中において、斎藤は自宅を150名の士官に包囲され、暗殺されるのです。
遺体は47箇所にも及ぶ銃痕、数十カ所の切り傷が残される悲惨な状態になっており、このとき斎藤を庇った春子夫人も傷を負っています。
斎藤が士官たちに狙われたのは、彼らが天皇親政を掲げる皇道派だったから。
天皇を取り巻く内閣を排除して、天皇に直々に統治してもらおうという考えの持ち主です。
内大臣の斎藤はいわば天皇の側近。
天皇親政にとってなにより邪魔になる存在だと、皇道派からは見られてしまったわけですね。
ちなみに事件の数日前、軍部に不審な動きがあるとして、斎藤は警視庁から忠告を受けていました。
その際、斎藤は警官にこう返したといいます。
いつも穏やかに事を進められる斎藤の資質は、やはりこの「いつでも命を懸ける準備はできている」という覚悟からなるものだったのでしょう。
きょうのまとめ
斎藤実は優れた能力と、常にどっしりと構えられる度量から成り上がった総理大臣。
時代の逆風を受け、政策自体はうまくいかない部分もありましたが、その生き様には見習うべき部分がいくつもありました。
最後に今回のまとめです。
① 斎藤実は海軍大臣・内閣総理大臣を歴任した山本権兵衛にその能力を買われ、海軍のトップにまで出世した。
② 朝鮮総督に任じられた際は、朝鮮民に寄り添った文化政治を展開。独立運動に荒れる朝鮮を上手く鎮めた。
③ 内閣総理大臣として、軍部と政党が協力する「挙国一致内閣」を組閣。しかし帝人事件に巻き込まれ総辞職となる。
④ 陸軍青年将校によるクーデター未遂「二・二六事件」で狙われ、士官150名によって殺害される。天皇の側近は、天皇親政の邪魔となるためだった。
将校の陰謀ともされる帝人事件、
そして二・二六事件。
この時代、軍部と政党で日本が真っ二つに割れていたことを痛感させる出来事がいくつも起こっています。
斎藤実も、この情勢に飲まれてしまった政治家の一人なのですね。
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