1941年、太平洋戦争の開戦に際し、首相兼陸軍大臣として日本を指揮した
東條英機。
彼の指揮のもと日本は敗戦に向かい、戦後、東條は東京裁判にて「A級戦犯」の罪に問われることとなりました。
戦時中は憲兵隊を用いて反対勢力を抑制したり、官職をいくつも兼任して内閣の権利を独占したり…。
その行動から国民の非難の声は多く、影響は子孫にまで及んでいます。
今回はその東條英機の子孫について、戦後、それぞれどのような経緯を辿ったのかに迫りました。
本編に入る前に、ひとつ気に留めておいていただきたいのは、東條の戦時中の行動はやむを得ない部分もあり、非難の声は誤解の部分も多いということ。
そう思って読むとまた、見え方が変わってくるはずです。
タップでお好きな項目へ:目次
東條英機の没後、子孫たちは…?
東條英機は、妻・かつ子とのあいだに3男4女、7人の子どもを儲けました。
このうち、次男以下の子どもたちは1945年の敗戦を受け、分家、または嫁に出すなどして、英機によって籍が外されています。
戦犯として裁かれる自身のとばっちりを受けないよう、子どもたちには配慮していたのですね。
7人はそれぞれ、以下のような経緯を辿っています。
戦後、競艇を主催する「日本船舶振興会」に務める。
戦時中は日本海軍の艦上戦闘機・零戦、戦後は日本初の国産旅客機YS-11などの設計に携わった。
のちに「三菱重工」の副社長、「三菱自動車」の社長、会長となる。
戦後は航空自衛隊に入隊し、空将補(少将)まで昇進した。
のちに社会学者の田村健二と結婚する。
自身は家庭裁判所の調停員。
こう見ると、それぞれ幸せそうなキャリアを送っているように見えますが、そうはいかなかったのが長男の英隆でした。
長男・英隆の苦悩
東條家の長男は
東條英教→東條英機→東條英隆
というように、名前に「英」の字を付けるのが慣例となっていました。
この名前で苦労することになってしまったのが、英機の長男である英隆です。
太平洋戦争を経て、A級戦犯にさらしあげられた父は悪い意味で有名人。
その父と一文字しか変わらない名前の英隆は、戦犯の息子であることもすぐにバレてしまいます。
戦後、就職先を探すも雇い手が見つからず、生計を立てるにも相当に苦労したという話です。
英隆の息子・英勝にしても、小学校の教員が受け持つことをこぞって拒否したため、校庭の登り棒に上って窓の外から授業を眺めていたという話があります。
A級戦犯のレッテルはずいぶんと長いあいだ尾を引いていたのですね…。
英機とは疎遠だった英隆
上述のように、英機のとばっちりを一番に受けていた英隆。
しかし実のところ、英機と英隆は疎遠になっており、英機が巣鴨プリズンに収容され、面会を望んだ際も断固として会いにいくことはなかったといいます。
これは英機が満州にて関東軍参謀長をしていたころ、英隆が満州警務部に勤務しており、ふたりのあいだにちょっとした衝突が起こったためです。
英隆は就職に際し親を頼ったことは一度もなく、英機が満州に赴任している時期に満州警務部付けになったのも、偶然の出来事でした。
しかし英機は英隆の配属を自身のコネだと周囲に勘違いされることを嫌い、人事担当者に免職、あるいは昇給できない身として英隆を扱うよう要求するのです。
父親の仕事のせいで職を失うなんて、英隆としてはとんでもない話ですよね。
英機もなんでそこまでする必要があったのか、謎ですが…。
これをきっかけに親子関係は悪化し、以降英隆は英機に関わることをやめたといいます。
以下はそんな英隆に宛て、英機が綴った遺書の内容です。
一、父は茲に大義のため自決す、
二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし
特に目に留まるのは「2」の母に関する項目。
「自分とは疎遠になっても、母さんのことは気にかけてやってほしい」という英機の願いが垣間見えます。
「三」の項目で出てくる三浦氏というのは英機が懇意にしていた友人のことで、迫害にさらされた東條家の子息を何かと支援した人なのだとか。
こういう根回しをしっかりしているところを見ると、息子と仲直りできなかったのはきっかけがつかめなかっただけなんだろうな…などとも思わされます。
現代で活躍する子孫も
現代になっても、東條英機のA級戦犯のレッテルは根深く残っています。
しかし今を生きる子孫たちはそれに屈することなく、逆に「東條姓だからこそできることがある」と、積極的に活動を展開していますよ。
東條由布子
2013年、73歳にしてお亡くなりになられましたが、長男英隆の娘・由布子さんも、英機の子孫としてはかなり有名な人です。
『祖父東条英機「一切語るなかれ」』、『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』など、英機に関する著書を多数出版。
保守派のコメンテーターとして、テレビ番組への出演経験も多々あります。
東京裁判での判決に始まり、靖国神社における戦犯の分祀問題など、英機を擁護する姿勢で強固に意見を述べていました。
晩年は沖縄など戦場となった土地へ出向き、戦死者の遺骨の収拾活動にも尽力。
この人の活動で、世間一般の英機への誤解が和らいだ側面もあるのではないでしょうか。
ちなみに代表作の「一切語るなかれ」という言葉は、東條家の家訓とされていたもの。
英機は子孫たちに向け、戦後100年は自分の名前を出さないよう命じていたといいます。
東條英利
英機のひ孫(英機の長男・英隆の英勝の子)にあたる東條英利さんは、
・日本の伝統文化を広めるべく、全国で講演などを行う国際教養振興協会の主催
など、日本文化の魅力を広めようと活動を展開されている方。
今、もっとも活躍している英機の子孫と呼べます。
英利さんがこのような活動を行うようになったことにも、実は英機が関係していたりするんですよ。
英利さんは前職でカタログ販売会社に務めており、香港に4年ほど赴任していたことがあるといいます。
曾祖父の英機はそれこそ日中戦争を主導していた張本人。
現地では英機をひざまずかせた像など、侮辱的な表現がされている場面に出くわすことがよくあったといいます。
そんな風潮もあって、自分が英機の子孫だとは周囲に言いづらかったそうなのですが、あるとき友人たちに打ち明けることがあったのだとか。
すると返ってきたのは、
「そんなことは関係ない。俺たちは友達だ」
という言葉だったというのです。
これをきっかけに英利さんは
「自分も日本のためになにかできることがあるんじゃないか」
と思うようになり、今の活動につながっているといいます。
過去に複雑な問題があったとしても、現在の行いでイメージを変えていくことはいくらでもできます。
英利さんの活動によって、海外の人たちにも日本の魅力が広く伝わっていくといいですね!
きょうのまとめ
東條英機の子孫たちはたしかに、戦犯として取り沙汰されてしまった英機の影響で、差別などの被害に少なからずさらされていました。
しかし現代において、子孫たちはこの逆境をバネにし、英機の行いや日本の魅力を見直してもらえるよう、さまざまな形で働きかけています。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 東條英機には7人の子息がいる。長男の英隆は特に戦後の迫害の被害を受け、働き口に困った。
② 英機の孫・東條由布子さんは、英機の擁護活動を積極的に行った。著書に『祖父東条英機「一切語るなかれ」』『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』などがある。
③ 英機のひ孫・東條英利さんは、日本文化を紹介するコミュニティーサイト「神社人」の運営、国際教養振興協会の主催を通して、日本の伝統文化の魅力を発信している。
ただ、子孫たちの活躍により、A級戦犯の極悪人という英機のイメージが払しょくされる日はそう遠くはなさそうです。
その他の人物はこちら
明治時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【明治時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す