中原中也とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

昭和初期を代表する詩人

中原中也なかはらちゅうや

「汚れちまった悲しみに……」「サーカス」などの代表作なら、聞いたことがある人も多いでしょう。

中也は30年という非常に短い生涯を終えた人物で、その間出版した詩集はわずか2冊。

それでも350以上の詩を残していることに、なにより驚かされます。

彼の人生を辿ってみれば、その独特な感性や次々に湧いてくるアイデアの源も、少しはわかるかも?

中原中也とは、いったいどんな人だったのか、今回は彼の生涯に迫ってみましょう。

 

中原中也はどんな人?

プロフィール
中原中也

1925年(大正14年)、18歳で上京した際、好きだった仏の詩人ランボオの帽子姿で、銀座の写真館で撮影
出典:Wikipedia

  • 出身地:山口県吉敷郡よしきぐん山口町大字下宇野令しもうのりょう村(現・山口市湯田温泉)
  • 生年月日:1907年4月29日
  • 死亡年月日:1937年10月22日(享年30歳)
  • 昭和期に一世を風靡した詩人。フランス印象派に影響を受けた、感情などの内面的なものを表現した作風が特徴。フランス語にも理解が深く、翻訳もいくつか担当している。

 

中原中也 年表

年表

西暦(年齢)

1907年(1歳)山口県吉敷郡よしきぐん山口町大字下宇野令しもうのりょう村(現・山口市湯田温泉)にて、軍医・柏村謙助の長男として生まれる。

1915年(8歳)父謙助が母フクの生家・中原家の養子となり、苗字が中原に変わる。弟の亜郎つぐろうが亡くなったことをきっかけに詩作を始める。

1920年(13歳)短歌を作るようになり雑誌『婦人画報』や、『防長新聞』などに入選、掲載される。

1922年(15歳)防長新聞の短歌会「末黒野の会」に出入りするようになり、会で知り合った吉田緒佐夢、宇佐川紅萩と歌集『末黒野』を刊行。

1923年(16歳)山口県立山口中学校での落第をきっかけに、立命館中学校に編入。京都で下宿生活を始める。

1925年(18歳)立命館中学を卒業、大学予科受験のため上京。

1926年(19歳)日本大学予科文科に入学するもすぐに退学。学校法人アテネ・フランセにてフランス語を学び始める。

1929年(22歳)同人雑誌『白痴群』を創刊。

1930年(23歳)中央大学予科に編入。

1931年(24歳)東京外国語学校専修科仏語部へ入学。

1933年(26歳)東京外国語学校を卒業。19世紀フランスの詩人アルチュール・ランボーの『ランボオ詩集〈学生時代の歌〉』を翻訳、初の商業出版を経験。

1934年(27歳)詩集『山羊の歌』を出版。帰郷し、長門峡を観光した際に吐血。

1935年(28歳)友人の小林秀雄が雑誌『文學界』の編集長になり、毎号中也の新作が掲載されるようになる。

1936年(29歳)『ランボオ詩抄』を翻訳、刊行。長男・文也が小児結核で亡くなり、幻聴や幼児退行など、中也の様子がおかしくなる。

1937年(30歳)『ランボオ詩集』を翻訳、刊行する。年はじめに精神病院に1ヶ月入院。10月には急性脳膜炎で入院し死没。

1938年遺作『在りし日の歌』が刊行。

 

中原中也の生涯

中原中也の生涯についてみていきましょう。

軍医の長男として誕生

1907年、中原中也は山口県吉敷郡よしきぐんにある下宇野令しもうのりょう村(現・山口市湯田温泉)にて、軍医・柏村謙助の長男として誕生します。

中原というのは母方の苗字で、母・フクの実家である中原医院にて生まれました。

軍医である父がのちにこの中原医院を継ぐために養子縁組をし、苗字が変わっています。

中也が生まれた当時、父・謙助は中国の旅順へ出兵していました。

そして生まれたばかりの我が子を手元においておきたいという父の願いから、生後間もなく旅順で生活していた時期があります。

中也という名前は、このころに軍医大佐の中村六也がつけてくれたもの。

しかし中也本人はずっと、

中也
森鴎外もりおうがい(当時軍医総監)がつけてくれた

と言いまわっていたといいます。

有名小説家の鴎外が名付け親のほうがいいという、一詩人としての心理なのでしょうか?

また中原家は男だけの6人兄弟でしたが、中也が8歳のころに一番歳の近い弟・亜朗つぐろうが脳膜炎で亡くなっており、中也の詩作もここから始まっているといいます。

兄弟の死というのは、幼心に強烈なものがあったのでしょうね。

成績優秀な神童から不良少年へ

中也は長男ということで、両親から将来は医者になることを期待されていました。

そのため幼少から非常に厳しい教育を施され、父親からは納谷に閉じ込められたり、タバコの火を押し付けられたりなど、体罰めいたことをされるのも珍しくありませんでした。

現代なら問題になってますよね。

その甲斐(?)もあってか、山口師範附属小学校時代は「神童」と呼ばれるほど成績優秀だったといいます。

しかし、これも厳しすぎたがゆえの反動でしょうか、県立山口中学校へ通うようになってからは一気に成績が悪化

原因は小学6年生ごろから始めた短歌に、どんどん夢中になっていたことでした。

両親に内緒で短歌会「末黒野の会」にも出入りするようになります。

大人も出入りする集まりに参加するようになった影響か、タバコや酒まで覚えており、神童と呼ばれた過去はどこへやら…。

結局は3年のときに落第が決まり、このまま山口中学に居続けるのも世間体が悪いという理由で京都の立命館中学へ編入。

そしてここから中也が京都で下宿を始めたのがまた運命的でした。

京都にて、東京出身の詩人・富永太郎と知り合ったことがのちに彼の人生に大きく影響してくるのです。

行方の定まらない大学時代

1925年のこと、立命館中学を18歳で卒業した中也は、下宿先で同棲していた女優の長谷川泰子とふたりで上京します。

上京は大学受験のためのものでしたが、このときは遅刻や書類の不備などが重なり、結局どこの大学も受けさせてもらえていません。

中学時代の悪癖は健在ということか…。

またこのころ、前述の詩人・富永太郎の紹介で東京帝国大学仏文科に通う小林秀雄と知り合います。

小林はのちに雑誌『文學界』の編集長になる人物。

雑誌に中也の詩をレギュラーで掲載するようになるため、この関係が将来的に中也の貴重なライフラインとなるのです。

ちなみに中也と一緒に上京した長谷川泰子はこの出会いをきっかけに小林と恋仲になり、中也とは別れています。

普通はまず険悪になるやつですが…、中也と泰子の友人関係はその後も続いているため、悪い別れ方ではなかったのかも?

で、肝心の大学受験はどうなったかという話。

これがまた迷走。

・1926年…日本大学予科文科に入学するも、すぐに退学

・1926年…学校法人アテネ・フランセでフランス語を学び始める

・1930年…中央大学予科に編入

・1931年…東京外国語学校選集科仏語部に入学

う~ん…興味があちこち行ってしまうのはわからなくもないけど。

仕送りをする両親の身としては「もう勘弁してくれ!」って感じです。

なんでも仕送りを絶やさないために、

昼夜
青山っていう友人が青山地区全域を占める大地主で…

などと、東京でとんでもない人脈が築けているという嘘を両親についていたという話もありますし。

またこのころに中也は『白痴群』という同人雑誌を出しており、その仲間との飲み会帰りに民家の外灯を叩き壊して警察沙汰になったなんて逸話も。

中学時代と変わらず、とことん問題児ですね…。

父謙助・弟恰三の死

中也の大学時代には父・謙助と、20歳になる弟・恰三こうぞうの死という大きな出来事がありました。

謙助は往診先で倒れて入院し、中也はこのとき月に一度ほどの頻度で見舞いに向かっていたといいます。

このころ丁度、中也はコネクションを使って作曲家の諸井三郎に

中也
自分の詩に曲をつけてほしい

と頼み込んでおり、リクエストに応えた諸井が発表会で中也のために作った曲を歌うという出来事がありました。

謙助は中也が書いたこの曲の歌詞を病室で見て、涙を流したのだとか…。

ただ、母フクの意向で中也は葬式に出席していないため、死に目には会えていません。

このときも世間体を意識したゆえ中也を呼ばなかったというのですが、素行の悪かった彼を厳正な場には出席させられないということでしょうか?

3年後には弟の恰三が亡くなるのですが、中也は謙助のときによほど悔いが残ったのか、

中也
恰三の遺体は自分が行くまで焼場に持って行かないで

と、フクに頼んだといいます。

ちなみに前述の諸井三郎が曲をつけた詩は「臨終」「朝の歌」というタイトルで、無名の学生詩人の詩に職業作家が曲をつけることは前代未聞の出来事でした。

以降、中也の詩に曲をつける作曲家は後を絶たず、「汚れちまった悲しみに……」などは、桑田佳祐やGLAYなど、近年のアーティストでも曲の題材にしていたりします。

初の詩集『山羊の歌』の苦悩

中也の処女作となる詩集は1934年に出版された『山羊の歌』

東京外国語学校を卒業した翌年に刊行されたこの作品は、実は2年越しの苦労を経てようやく出版にこぎつけたものです。

今でこそ高く評価されていますが、『山羊の歌』の出版計画が持ち上がった当初、中也の詩の評判はいまいちでした。

友人からカンパを集めて自費出版をしようとするも、10人ほどからしかお金が集まらずに頓挫。

なんとか出版にこぎつけようと、出版社に持ち込むも断られる。

あまりにうまく行かなさ過ぎて、中也はノイローゼになってしまうほどだったといいます。

『山羊の歌』は、こういった紆余曲折を経てやっと出版に辿り着いた作品なのです。

また中也は、このころに19世紀フランスの詩人アルチュール・ランボーの詩集を翻訳しており、自身の詩集よりもそちらのほうが先に商業出版に成功しています。

ランボーの詩集に関しては、

『ランボオ詩集〈学生時代の歌〉』

『ランボオ詩抄』

『ランボオ詩集』

と、生涯に3作品を翻訳しています。

そう、かくいう中也の詩も19世紀フランスで台頭した印象派の流れを汲んだものです。

そもそもフランスの芸術への興味から、フランス語に傾倒していったのかもしれませんね。

長男・文也の死から体調悪化

1933年のこと、中也は6歳年上の妻・孝子と結婚しています。

意外なのはふたりがお見合い結婚だということ。

ここまでの中也の悪童ぶりを見ていると、「女遊びもかなりしていたんだろうな」といったイメージが浮かんでしまいますが…

(この時代の詩人とか作家ってそういう人が多いし…)。

しかし中也は結婚に関してすべて母親の言いなりで、孝子との縁談もすんなり受け入れたといいます。

そして次に中也の人生の岐路になるのは、この孝子とのあいだに儲けた息子の死です。

孝子とはふたりの息子を儲けていますが、そのうち長男の文也が2歳のころ、小児結核で亡くなってしまいます。

息子の死に大きなショックを受けた中也は…

・葬儀の際に遺体を抱いて離さない

・幻聴、幼児退行

・雑誌『文學界』に「愛するものが死んだときには、自殺しなきゃあなりません」という詩を掲載する

など、明らかに情緒不安定な状態に。

あまりの状況に精神病院に入院させるも、退院した途端

中也
俺をだまして入院させただろ!

と暴れ出す始末です。

病は気からとはよく言ったもので、中也はここからどんどん弱っていきます。

最期は1937年、鎌倉駅前の広場にて急性脳膜炎で倒れ、入院先の病院にて、その生涯を終ることに。

ちなみに中也は倒れる直前に2冊目の詩集『在りし日の歌』を書き終えており、これは中也が亡くなった翌年、1938年に出版されました。

どんなにボロボロの状態になっても詩作だけはやめなかったのですね…。

いや、むしろ詩にすることでいくらか救われる部分もあったのでしょうか?

心身ともに衰弱しきったなかで書かれているからこそ、彼の詩はどこか胸を刺す部分があるのかもしれません。

 

きょうのまとめ

幼少期の弟の死をきっかけに詩作に目覚め、最期は長男の死をきっかけに、自身も死へと向かって行った中原中也。

彼の人生のターニングポイントには、いつも愛する人との別れがあるように感じます。

アウトローに走った学生時代にしても、類稀な感性に結びついていることは紛れもありません。

振り返ってみるといかにも詩人らしい、芸術家然とした人生だなと感じさせられますね。

最後に今回のまとめです。

① 両親は教育に厳しく、幼少期は神童と呼ばれるが中学に上がると短歌に夢中になり落第。タバコや酒なども覚え、一気に不良少年に

② 中退や編入を繰り返した大学時代。最終的には東京外国語学校を出て、フランス語の詩の翻訳などを手掛けるように

③ 詩はフランス印象派の影響を受け、感情などの内面的要素を描写したもの。心身衰弱しながら書いた晩年の作品はだからこそ刺さる

中也の詩をあまり知らない人はぜひ、一度作品に触れてみてください。

詩を知っている人でも、その生涯を知ってから読めばまた一味違った感じ方ができるはずです。

 
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