主に19世紀前半にかけてドイツで活躍した哲学者、
ヘーゲル。
独自の弁証法を用いて執筆された著作は、西洋哲学書のなかでも特に難解な書物の一つに位置付けられています。
ドイツ観念論を完成させた思想家として、フィヒテ、シェリングらと並び称されるヘーゲル。
彼は一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はその生涯について、功績と共にご紹介していきます。
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ヘーゲルはどんな人?
- 出身地:ドイツ シュトゥットガルト
- 生年月日:1770年8月27日
- 死亡年月日:1831年11月14日(享年61歳)
- ドイツの哲学者。ドイツ観念論を完成させた思想家。
ヘーゲル 年表
西暦(年齢)
1770年(0歳)ドイツ、シュトゥットガルトの町で中流階級の家に誕生。
1788年(18歳)ギムナジウムを卒業。テュービンゲン大学の神学部に入学。
1793年(23歳)大学を卒業後、哲学者を志し、家庭教師として生計を立てる。
1798年(28歳)『キリスト教の精神とその運命』を執筆。
1801年(31歳)イェーナ大学の私講師に就任。
1802年(32歳)『哲学批判雑誌』の発行。
1805年(35歳)イェーナ大学で助教授に昇進。
1807年(37歳)イェーナ大学閉鎖。地方新聞『バンベルク・ツァイトゥンク』の編集者になる。『精神現象学』を刊行。
1808年(38歳)ニュルンベルクにあるギムナジウムの校長兼哲学教授に就任。
1811年(41歳)ニュルンベルクの都市貴族の娘で、当時20歳だったマリーと結婚。
1816年(46歳)ハイデルベルク大学の正教授に就任。
1818年(48歳)ベルリン大学の教授に就任。
1821年(51歳)『法の哲学』の刊行。
1827年(57歳)フランスのパリへ旅行する。その帰途、ヴァイマルにいたゲーテを訪ねる。
1829年(59歳)プロイセン王によって、ベルリン大学総長に指名される。
1831年(61歳)当時流行していたコレラに感染。ベルリンで死去。
ヘーゲルの生涯
ここからは早速ヘーゲルの生涯について、その思想と共に見ていきましょう。
弁証法哲学
ヘーゲルの生涯を見る前に、まずは彼の確立した代表的な思想である「弁証法」について、簡単にご説明します。
ちなみに「弁証法」そのものは、古代ギリシャ哲学に由来する哲学の用語です。
彼は自身の弁証法の中で、「アウフヘーベン」という概念を用いています。
アウフヘーベンとは、直訳すると「止揚」、止めて揚げる。
とあるテーゼ(正)と、その反対であるアンチテーゼ(反)があり、対立するこの2つを一旦止めて、さらに上の次元に引き揚げる。
対立関係にあった2つの調停役となり、より良いものとして一つ上の次元に現れたそれは、ジンテーゼ(合)といいます。
例えば、「氷が水になる」という現象について。
このプロセスを言い換えると、「氷は冷たい」というテーゼ(正)に対し「氷はいつか温くなって溶ける」というアンチテーゼ(反)を挙げることができます。
ヘーゲルはこのように、一つの物事には必ずそれ自体の否定が存在することを示しました。
そして、「冷たい氷はいつか冷たくなくなって溶ける」いう2つの事柄の対立の末に導かれるのが、「水としてあらゆる用途で役立つ」というジンテーゼ(合)。
氷が溶けるという事実を覆い隠すことなく、さらに高次元の状態に導くことができるのです。
ヘーゲルの確立した弁証法は、様々な事物やその過程を証明する際、説得力を持たせるのに役立つ考え方です。
若き日のヘーゲル
1770年8月27日、ヘーゲルはドイツのシュトゥットガルトで中流階級の家庭に生まれます。
少年時代のヘーゲルは、既に古典や歴史などの学問でその深い思考を発揮し、歴史的事柄と哲学を結び付けて考えるようになっていました。
大学時代には主に神学と哲学を学び、後に彼と並びドイツ観念論の代表的な思想家となるシェリングや、ヘルダーリンらと交流を深めていきました。
また、同時期には隣国のフランスでフランス革命が勃発し、自由を求めて行動を起こす若者たちに触発されたヘーゲルは、増々勉学に励むようになります。
大学卒業後は哲学者としての道を歩むことにしたヘーゲル。
しかしいきなり大学で教職に就けるほど甘くはなく、数年間は裕福な貴族の家で家庭教師をして生計を立てながら、研究者としての道を模索する日々が続きました。
哲学者としてのヘーゲル
スイスの首都ベルンやドイツのフランクフルトなどで家庭教師をしつつ、政治や宗教問題などを研究対象にしていた彼は30歳を迎える頃、遂に大学での職を手にします。
学生時代からの友人であるシェリングが教授を務めていたイェーナ大学で、ヘーゲルは私講師として、
・論理学
・哲学入門
・哲学演習
などの授業を受け持ちました。
そして自身も精力的に論文を発表し、学者としての足場を作っていきます。
その後、准教授になり哲学史の授業も担当したヘーゲルでしたが、同大学の閉鎖により失職を余儀なくされたのです。
しかし幸いにも友人の助けにより地方紙の編集者として働いた後、38歳のときにニュルンベルクにある中等教育機関で、校長兼哲学教授となります。
この時期のヘーゲルは、学校運営業務の傍ら新設科目だった哲学の教材を作成し、哲学や論理学の授業を受け持ちました。
10代半ばから20歳前の生徒たちに難解なこれらの学問を分かりやすく教えるため、ヘーゲル自身が日々努力を重ねました。
その後、46歳でハイデルベルク大学の正教授となった彼は、学者としての地位を確かなものにしていきます。
さらに48歳でベルリン大学の教授に就任。
・歴史哲学
・哲学史
・宗教哲学
など、担当する講義はどれも学生からの絶大な人気を集めました。
そして51歳のとき、代表的な著作『法の哲学』を発表すると、ヘーゲル学派が形成されていったのです。
ヘーゲル学派は彼の死後、いくつかに分裂しながらも、カール・マルクスなどといった後の思想家たちに影響を与えていくことになりました。
ヘーゲルにまつわるエピソード
ここでは、ヘーゲルに関連するエピソードをご紹介します。
哲学者の結婚
哲学者になるため試行錯誤を続けていたヘーゲルが結婚したのは、41歳のとき。
妻のマリーはニュルンベルクの都市貴族の娘で、当時20歳でした。
約20年もの年の差がある2人でしたが、2人の子供に恵まれ幸せな家庭を築きます。
しかし実はヘーゲルには既に、結婚が破談となった別の女性との間に子供がいたのです。
庶子として誕生したその子供に対し、数年間養育費を送り続けていたヘーゲル。
しかし彼がハイデルベルク大学の正教授に就任すると、その子を引き取り、その後は家族5人で暮らすことが可能になりました。
シェイクスピアのファン
幼い頃から深い思考を巡らせるのが得意だったヘーゲル。
言語能力にも優れていた彼は8歳の頃に、担任の先生からシェイクスピアの全集を贈られたという話があります。
それ以来ヘーゲルはシェイクスピアの愛読者となり、作品の研究を通して自身の思考を鍛えていきました。
そういった意味でシェイクスピアの作品は、ヘーゲルの哲学的思想の原点とも言えるのです。
きょうのまとめ
今回は、ヘーゲルについて、その生涯と功績をご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ヘーゲルとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀前半に活躍したドイツの哲学者、思想家。
② フィヒテ、シェリングらと並びドイツ観念論を代表する人物の一人。
③ 代表的な思想に「アウフヘーベン」の概念があり、これによってドイツ観念論を完成させた。
ヘーゲルが完成させた「弁証法」。
難解ではありますが、これを使いこなせれば、自身の発言や文章に説得力や厚みを持たせることができるのです。
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