山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟と共に
「幕末の三舟」の一人として知られる人物です。
旧幕臣で、明治政府に仕え、のちに明治天皇の侍従を務めたという山岡鉄舟とはどんな人物だったのでしょうか。
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山岡鉄舟はどんな人?
- 出身地:江戸(現在の東京)
- 生年月日:1836年7月23日
- 死亡年月日:1888年7月19日(享年53)
- 剣・禅・書の達人。江戸無血開城のために奔走し、旧幕臣ながら明治天皇の侍従として勤めあげた。
山岡鉄舟 年表
西暦(年齢)
1836年(1歳)江戸本所にて誕生
1851年(16歳)弘法大師流入木道(書の流派)52世を受け継ぐ、北辰一刀流学ぶ
1855年(20歳)講武所入所。千葉周作に剣術、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山の娘、英子と結婚し、山岡家に婿養子に入る
1862年(27歳)清河八郎盟主の浪士組の取締役となる
1863年(28歳)将軍・徳川家茂の先供として浪士隊として上洛。清河の不審な行動のために隊を連れて江戸帰還。清河八郎暗殺後、鉄舟は謹慎処分となる
1868年(33歳)幕府精鋭隊歩兵頭格となる。3月9日西郷隆盛と駿府で面会
1871年(36歳)静岡県大参事、茨城県参事などを歴任
1872年(37歳)侍従として明治天皇に仕える
1883年(48歳)臨済宗全生庵を建立
1885年(50歳)一刀正伝無刀流を開く
1888年(53歳)胃がんにより病死
山岡鉄舟の生涯
激動の幕末から明治維新の時代を生き抜いた、誠のある武士・山岡鉄舟の人生を見てみましょう。
武芸に打ち込んだ幼少期から青年期
山岡鉄舟は1836年に小野浅右衛門と磯の長男として誕生。
小野家は武芸の家で、母の実家は剣豪・塚原卜伝を先祖に持つという家柄でした。
幼い頃から腕を磨いた鉄舟は、新陰流、北辰一刀流、樫原流槍術を学んでいます。
16歳で母親を、17歳で父親を亡くしますが、武芸に精進し、身長は188cm、体重は105kgという立派な体格の青年に育ちました。
剣で幕臣となった鉄舟
腕の立つ鉄舟は、1855年に講武所(江戸幕府の武芸訓練機関。役人、旗本、御家人およびその子弟が対象)に入所。
槍の師範だった山岡静山の妹・英子と結婚して山岡家の婿養子となり、講武所の世話役となりました。
1862年、江戸幕府が組織した浪士隊の取締役となった鉄舟は、将軍・徳川家茂の上洛に先駆けて京へ到着。
しかし幕府の浪士隊を、尊王攘夷を目的にした世話役の清河八郎に利用されたことが発覚し、隊はすぐに江戸に戻されました。
のちに清河八郎は暗殺され、鉄舟は謹慎処分されています。
命を張って江戸無血開城に貢献
1867年の大政奉還、王政復古の大号令を経て、1868年には戊辰戦争が始まりました。
徳川慶喜は江戸に敗走し、幕府はついに「江戸無血開城」を決意します。
その時に、官軍がひしめく駿府へ、事前交渉のために乗り込んだのが鉄舟でした。
徳川慶喜の命令を受け、進撃して来る新政府軍の中を突破して西郷に直談判したのです。
西郷は、主君・慶喜への忠義を貫き、江戸市民の命を守るために、死を覚悟して敵陣に乗り込んできた鉄舟の行動に心を打たれました。
鉄舟の主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証して、奇跡的な「江戸無血開城」への道が開かれます。
鉄舟こそが、のちの西郷・勝会談のお膳立てをしたのです。
明治維新後、鉄舟の死
鉄舟は維新後、新政府に出仕していくつかの役職を経た後、西郷隆盛の推薦によって1872年から10年の期限付きで明治天皇の侍従を務めました。
天皇からは非常に信頼され、約束通り10年務めた鉄舟は、功績によって子爵に叙されています。
その後、彼は、維新に殉じた人々の菩提を弔うために東京都台東区谷中に全生庵を建立。
1885年には一刀正伝無刀流を開いています。
1888年、かねてから患っていた鉄舟の胃がんは悪化します。
7月19日の朝、鉄舟は皇居に向かって結跏趺坐(仏教における最も尊い坐り方であり、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せるもの)したまま絶命しました。
山岡鉄舟を慕う人々
鉄舟の葬列を見送る明治天皇
山岡鉄舟の葬儀は豪雨の中、7月22日に行われました。
四谷にあった鉄舟の自宅を出た葬列は、皇居の前で10分ほど止まりました。
実は、あらかじめ明治天皇からそうするようにとの内意があったのです。
天皇は、高殿から鉄舟の葬列を目送したそうです。
葬儀の会場は、鉄舟が生前に建立した全生庵でした。
鉄舟を慕い、集まった会葬者は5千人にものぼったといいます。
鉄舟のいない世に絶望する人々
鉄舟死後、彼の門人・村上俊五郎は、四谷警察署に保護されています。
殉死の恐れがあったのです。
さらなる門人・栗津清秀も殉死寸前に全生庵の裏山から発見され、保護されました。
しかし、9月になって3人もが鉄舟の墓前で殉死しています。
また、葬儀に出たまま家に帰らず、3年間も墓前に留まっていた門人もいました。
「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない」
彼らにとって鉄舟はそれほどかけがえがなく、彼の死は受け入れがたいことでした。
山岡鉄舟にとっての江戸開城と勲三等拒否
山岡鉄舟は、「江戸無血開城」のために命を賭けて行った参謀・西郷隆盛との事前会談について、維新の功績を調査する政府の賞勲局には報告しませんでした。
鉄舟の後で西郷と最終的な会談を行った勝海舟との間で手柄争いになるの避け、功績を勝に譲ったのです。
その経緯を知らぬはずはない勝海舟ですが、「江戸無血開城」の功績に関して、彼の口から鉄舟の名前がでることはありませんでした。
ただ、その後も勝が鉄舟の臨終を見舞っていることなどから、2人の間が険悪だったわけでもなさそうです。
そんな鉄舟が、一度だけその件に関して啖呵を切りました。
明治天皇に10年仕えた後、勲三等に叙された鉄舟に、明治政府の欧化政策などで知られた井上馨が勲章を持参してきたときのことです。
鉄舟は、
と言って勲三等を拒否したそうです。
鉄舟は没後に勲二等旭日重光章を追贈されています。
日本最後の仇討ちをした臼井六郎と鉄舟
元秋月藩の武士臼井六郎は、日本史上最後の仇討ちをした人物として知られています。
その彼に撃剣を教えたのが山岡鉄舟でした。
六郎の両親は、彼が12歳の時に藩内の政治的対立が原因で理不尽に両親を殺害され、犯人は無罪とされました。
その仇を13年後に六郎が取ったのです。
ところが明治政府の下では仇討ちは違法。
六郎は罪人となり、世間は大いに六郎に同情しました。
六郎の目的を知らずに剣を指導した鉄舟は、
と語ったそうです。
鉄舟自身は剣の達人でありながら、人を殺めたことがないとも言われます。
彼にとっては、仇討ちも殺人でしかなかったのでしょうか。
山岡鉄舟の墓所
山岡鉄舟の墓所は、台東区谷中の全生庵にあります。
この寺は、明治維新でなくなった人々のために鉄舟自身が1883年に建立した臨済宗・国泰寺派の寺院です。
鉄舟の法名は「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。
彼の門人であり、友人でもあった当時の人気落語家・三遊亭圓朝の墓所も共にあります。
<都指定旧跡 全生庵:東京都台東区谷中5丁目4番7号>
きょうのまとめ
今回は、幕臣であり明治天皇の侍従でもあった山岡鉄舟についてご紹介いたしました。
山岡鉄舟とは
①剣の達人であり徳川慶喜への忠義を忘れることのなかった旧幕臣
②命を賭して敵軍へと乗り込み、直談判をした「江戸無血開城」の影の功労者
③明治天皇を含む多くの人々にその死を惜しまれた誠意の人
でした。
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