紀元前4世紀、古代ギリシャにて生涯を研究に費やし、あらゆる学問の基礎を築いた
アリストテレス。
彼はソクラテス、プラトンといった古代ギリシャの著名な哲学者に並ぶ存在として扱われます。
マケドニアの王としては歴代でも顕著な活躍をした、アレクサンドロス大王の家庭教師を務めたというのも、有名な話ですね。
万学の祖とも呼ばれる彼は、一体どんな人で、どんなことを考えていたのでしょうか。
今回はその生き様や彼の残した学問の内容から、アリストテレスの人物像に迫っていきます。
アリストテレスはどんな人?
- 出身地:マケドニア王国のトラキア地方・スタゲイロス(古代ギリシャ)
- 生年月日:紀元前384年
- 死亡年月日:紀元前322年3月7日(享年62歳)
- プラトン、ソクラテスと並ぶ古代ギリシャの哲学者。自然研究を元にあらゆる学問の基礎を築いた「万学の祖」と呼ばれる。
アリストテレス 年表
西暦(年齢)
前384年(1歳)マケドニア王国トラキア地方のスタゲイロスという町で生まれる。幼少より両親を亡くし、義理の兄プロクセノスに育てられる。
前367年(18歳)アテネへ移り、プラトンの主催する学園「アカデメイア」に入門する。以降20年に渡り勉学に励みプラトンからは「学園の精神」と称されるほどになる。
前347年(38歳)プラトンが死去。同時にアカデメイアを辞する。この頃学友のヘルミアスに呼ばれて小アジアのアッソスへ行き、ヘルミアスの姪のピュティアスと結婚する。
前345年(40歳) ヘルミアスがペルシア帝国に捕まったことを機に、トルコ沿岸のレスボス島・ミュティレネに移住する。ミュティレネでは生物学の研究に勤しんだ。
前342年(42歳)マケドニア王フィリッポス2世に招かれ、マケドニア王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師になる。同時期にミエザの学園を作り、マケドニア王国の中核を担う貴族階級の者を多数育てた。
前335年(49歳)アレクサンドロス大王が王座に就くとアテネに戻り、学園「リュケイオン」を創設する。
前323年(61歳)アレクサンドロス大王が死去したことでマケドニアの支配力が低下。アテネにてマケドニア人の迫害が起こり、母方の故郷エウボイア島・カルキスに移住する。
前322年(62歳) 胃病により死去。
アリストテレスが築いた学問の基礎
アリストテレスがあらゆる学問の研究に励むようになったのは、紀元前367年、プラトンが主催する学園「アカデメイア」に入門してからのこと。
前347年に学園を辞した後も、前323年の迫害に遭うまで、彼は一教師であり続けました。
その間約45年もの期間、学問を追求し続けたことになります。
それだけの年数を費やしたとあって、アリストテレスの残した学問研究は多岐に渡る内容です。
その中でも代表的なものから、彼がどれほどの功績を後世に残したのか、辿っていきましょう。
形而上学
アリストテレスの形而上学は、物事がいかにして存在しているかを追求した哲学です。
彼はこれを「第一哲学」と呼び、形而上学はアリストテレスの考え方の根幹の部分になっているともいえます。
物事が存在するのはすべて現実に原因があるとし、その原因を
「形相因」
「始動因」
「目的因」
という、4つの種類に分類して説明。
物理的な観点から物事の存在原因を追究しました。
師・プラトンの唱えたイデア論の逆説だといわれることも…。
自然学
アリストテレスの自然学の研究は物理学、動物学、植物学、天文学を筆頭に多岐に渡る内容です。
なお自然学は形而上学に続く第二哲学に位置付けられ、形而上学の考え方が自然学の基礎となっています。
アリストテレスの自然学の中でも、後世に最も影響を与えたのは動物学の分野です。
彼は数百にも及ぶ動物を詳細に観察し、「親がいなくても、無生物から生物が発生することがある」とする「自然発生説」を唱えました。
アリストテレスが唱えた自然発生説は、草についた露から虫が生まれる…海底の泥から海老、タコ、イカなどが生まれることがあるなど、現代の常識から考えれば「いやいや…」と笑ってしまいそうな内容です。
しかしこれが完全に否定されたのは1861年のこと。
なんとそれまでの数千年の間、否定派と肯定派で論議をかもし続けていたのです。
間違っているとなかなか証明できなかったのは、微生物の発生についての説明がつかなかったからだとか。
いずれにせよアリストテレスが自然発生説を考えたおかげで、後世の学者によってさまざまな実験が行われ、現代に向けて生物の成り立ちが明らかになっていったといえます。
論理学
哲学において真実を追求していく方法は、それまでソクラテスが行った問答法が一般的でした。
これに対してアリストテレスは、自身の経験や過去に起こった一般論を元に、真実を導き出す論理学を唱えたのです。
問答法は対話の中で、質問を繰り返すことで真実を明らかにしていく方法。
それに対してアリストテレスの論理学は、過去のデータに基づくものです。
彼はそれまでの哲学者に比べて根拠を大切にした、いわゆる学者らしい学者だったといえますね。
彼の考えた三段論法の代表的な言葉が以下の通り。
「すべての人間はいつか死ぬ(大前提)」
「ソクラテスは人間である(小前提)」
「ゆえにソクラテスは死ぬ(結論)」
これだけを聞くと「え?そんなわかりきったこと…」と思ってしまいますが、まずデータを集めるところから始めるという方法は、現代に続くあらゆる学問の基本となっています。
倫理学
倫理学は人間がどうして働くのか、政治を行うのか…つまり社会を営んでいく理由を考えた学問です。
アリストテレスは、人間の社会的営みは自身の理性を磨いていく目的に行き着くとしました。
つまり人間はより気高くあること、より良い人間になることを目指して働き、政治などを行うということです。
アリストテレスはそれを「最高善」と呼び、それこそが人間にとって最大の幸福だと説いています。
確かに仕事を怠けて目先の快楽を得るよりも、熱心に仕事をして誰かを喜ばせることのほうが幸福感は大きいはずです。
そして政治はまさに世の中を正していくこと。
すなわち社会全体で良くなっていこうとする行為です。
どちらも簡単なことではありませんが、人間はより良い人間になることを求めて生きているということには、腑に落ちる部分がありますね。
きょうのまとめ
記事の中で触れたように、アリストテレスが唱えた学問には、「なるほど奥が深い…」と思わされるものもあれば、今となっては「そんなバカな」と笑ってしまうようなものもあります。
学問の基礎を築いたといっても、彼の考え方すべてが正しかったわけではなかったのです。
しかし重要なことは、それまでにアリストテレスほど、それらの学問を追求した人がいなかったということでしょう。
アリストテレスの追求する姿勢があったから、後世に渡って学問が発展していったのです。
例えそれが間違っていても、行動を起こしたことは無駄にはなり得ない…何かの形できっと実を結ぶということを、彼の生き様から学ぶことができますね。
最後に今回の内容をまとめておきましょう。
① アリストテレスは約45年に渡りあらゆる学問を追求し、その基礎を築いた
② 形而上学、自然学ではこの世に存在するものの成り立ちを追求した
③ 論理学では真実の追求の仕方、倫理学では人間が社会的営みを行う意味を唱えた
以上のような感じでしょうか。
アリストテレスが万学の祖と呼ばれる理由は、何より後世の学者たちの研究意欲をかき立てたことにあるのですね。
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