チャップリンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

時代がトーキー映画に移行しようとしていた20世紀、

サイレント映画にこだわった映画人がいました。

圧倒的存在感と才能で世界中から愛された喜劇の王様、

チャップリン

チャーリーの愛称で知られる彼は、晩年にハリウッドのアカデミー協会から、

「チャップリンは映画用語の一つである」とまで言われました。

チャップリンとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は喜劇王の生涯に迫ります。

 

チャップリンはどんな人?

プロフィール
チャールズ・チャップリン

出典:Wikipedia

  • 出身地:イギリス ロンドン
  • 生年月日:1889年4月16日
  • 死亡年月日:1977年12月25日(享年88歳)
  • 20世紀を代表する喜劇の王。俳優。映画監督。脚本家。作曲家。プロデューサー。

 

チャップリン 年表

年表

西暦(年齢)

1889年(0歳)イギリスのロンドンに生まれる。歌手だった両親は1年後に離婚。

1894年(5歳)母親の代役として舞台デビューを果たす。

1896年(7歳)母親が入院し、異父兄と共に孤児院を移動しながらあらゆる仕事を経験する。

1899年(10歳)地方の劇団一座に入団し、本格的に演技を学び始める。

1908年(19歳)兄の紹介でパントマイムの名門だった劇団に入る。

1913年(24歳)2度目のアメリカ公演の際、映画プロデューサーに才能を買われ、キーストン・スタジオに入社。

1914年(25歳)初の主演映画『成功争い』の公開。2作目の『ベニスの子供用自動車レース』で、「放浪紳士チャーリー」のスタイルを確立。以降70作品以上の映画で活躍。

1918年(29歳)知名度が上がると共に所属会社の移籍を経て、ハリウッドに自身の撮影スタジオを設立。

1919年(30歳)外部からの干渉を防ぐため、友人らと4人で配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立。

1921年(32歳)自身が担当する初の長編映画『キッド』が大ヒットする。

1925年(36歳)『黄金狂時代』の公開。革靴を食べるシーンが話題に。

1931年(42歳)『街の灯』のプレミアを兼ねた世界一周旅行へ。ガンジーやアインシュタイン、チャーチルらと交流。翌年、初来日。

1936年(47歳)『モダン・タイムス』の公開。作中音楽「スマイル」はその後、多くのミュージシャンによってカバーされる。

1940年(51歳)『独裁者』の公開。ヒトラー批判と反戦を込めた初のトーキー作品。

1947年(58歳)ブラックコメディ『殺人狂時代』の公開。アカデミー脚本賞にノミネート。

1952年(63歳)『ライムライト』のプレミアのためロンドンに向かう際、米国から事実上の国外追放命令を受ける。翌年スイスに移住。

1957年(68歳)『ニューヨークの王様』をイギリスで完成させる。

1964年(75歳)初の自伝である『チャップリン自伝』を出版。

1967年(78歳)英国で撮影した『伯爵夫人』は最初で最後のカラー作品となる。

1972年(83歳)アカデミー賞特別賞を受賞。20年ぶりに米国へ足を踏み入れる。

1977年(88歳)12月25日の朝、スイスの邸宅で生涯の幕を閉じる。

 

放浪の紳士チャーリー

山高帽にチョビ髭、ぴちぴちのスーツにだぼだぼのズボン、

ステッキを片手にドタ靴をはいて、ペンギン歩き

怖い人は苦手だけど、弱い者を救うためなら勇敢に立ち向かう、

お茶目な彼は放浪の紳士、チャーリー

チャップリンが25歳のときに誕生したこのキャラクターは、

それ以降70作品以上にわたって主人公を務めます。

チャーリーが巻き込まれたり、みずから巻き起こす事件は、

どんなにシリアスな展開になっても必ずどこかで笑いを誘います。

映画にまだ音声がなかった時代、チャップリンの持ち味である

パントマイムを用いたコメディー要素の強い初期の作品で大衆の心を掴むと、

徐々にその作風には社会へのメッセージが込められるようになります。

『キッド』『街の灯』『ライムライト』では、

人間の持つ純粋な優しさ勇気、そして生きるということを。

『モダン・タイムス』『独裁者』『殺人狂時代』では、

機械文明や戦争に対する警告批判、そして平和の尊さを。

2度の大戦や世界恐慌、そして急激な技術発展を迎えた20世紀という時代。

チャップリンは映画というエンターテインメントの舞台を通して、

現実の世界に広くメッセージを発信し続けました。

「笑い」を軸にしつつ、どの作品もただのコメディーでは終わらせないところに、

チャップリンが「喜劇王」として名を遺すことになる所以があるのです。

 

チャップリン 知られざるエピソード

貧しい少年時代から一転、喜劇映画の頂点へ

人々を楽しませ、笑わせることの達人だったチャップリン。

しかし彼の少年時代は、過酷なものでした。

1歳のときに両親は離婚。7歳のときには母親が精神の病に侵され入院。

チャップリンは4歳上の異父兄と孤児院を転々としながら、

生きるために床屋や印刷工、新聞の売り子などをして生活していました。

その傍らで演技の世界に目覚め、地方の劇団で本格的に演技を学んでいます。

そんなチャップリンに転機が訪れたのは彼が19歳のとき、

兄の紹介で入った名門の劇団で成功を修め、若手の看板俳優となります。

その後、パリ、カナダなどへの巡業を経て、2度目のアメリカ巡業の際に

映画プロデューサーの目に留まり、映画会社と契約を結んだのです。

翌年の1914年、『成功争い』で映画デビューを果たすと、

そこから一気にスターダムに駆け上っていったのです。

名作の裏にある完璧主義者の顔


過酷な少年期を乗り越え映画界のスターとなったチャップリンですが、

自身が出演した11作目では既に監督などの制作全般に関わるようになっています。

その後、より自由な作風を生み出すために、30歳のときには自身の会社を立ち上げます。

そして自身が担当した初の長編作品『キッド』で大成功を収めると、

その後も次々と名作を生み出していくのです。

順調に成功を収めていったチャップリンですが、

その背景には彼の徹底したこだわりが関係しているのです。

彼は完璧主義者として有名で、作品を撮る際に一切の妥協を許しませんでした。

例え数秒のシーンであっても、納得がいくまで何百回でも撮り直します。

『街の灯』でチャーリーと花売り娘が出会う約3分のシーンでは、

1年以上かけて撮り直しされ、NGの回数は実に300回以上にもなりました。

アメリカ追放の裏側

それは1952年、チャップリンが63歳のときの出来事でした。

『ライムライト』のプレミアのため、

長らく離れていた祖国イギリスのロンドンに向かっていた時、

チャップリンはアメリカの法務長官から、

事実上の国外追放を命令されてしまいました。

24歳のときから活動拠点をアメリカに移すも、

アメリカ国籍を取得していなかった彼は、

その後20年アメリカに戻ることができなくなってしまったのです。

この出来事の背景には、チャップリンの作品が持つ強いメッセージが関係していました。

『独裁者』に込められた反戦と平和は、後に世界中の軍事産業に警戒されることになり、

『モダン・タイムス』では資本主義社会への風刺によって、

チャップリンを共産主義者であるとみなすようになったのです。

しかしチャップリンの影響力を恐れ一度は追放したアメリカですが、

その後チャップリンが83歳を迎えたとき、

アカデミー賞特別賞を授与することで彼に謝罪を行っています。

 

きょうのまとめ

今回は、20世紀の映画界を代表する喜劇王、

チャップリンの人生についてご紹介しました。

彼がどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 「放浪紳士チャーリー」のキャラクターで一躍有名になり、20世紀における喜劇映画の頂点に立った

② 演者以外に監督や作曲、脚本など制作全体に携わり、妥協を許さない完璧主義者だった

③ それまでのコメディー作品とは異なり、ユーモアのなかに現実社会を描写し、メッセージを込めた深い作風が特徴

映画というエンターテインメントを通して、

現実世界に対し挑戦し続けたチャップリン。

その影響力は時に政府を警戒させるほどのものでした。

それでも彼の人生は、20世紀に最も愛された喜劇の王として、

その名を永遠に歴史に刻んだのです。

 

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