アインシュタインとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

20世紀を代表するドイツの物理学者、

アインシュタイン

様々な発明的理論を生み出し、人々からは天才と呼ばれるようになります。

晩年に撮影されたカメラに向かって舌を出す写真は、

誰でも一度は目にした覚えがあるのではないでしょうか。

一体、アインシュタインとはどんな人物だったのか。

今回はその生涯に迫ります。

 

アインシュタインはどんな人?

プロフィール
アインシュタイン

出典:Wikipedia

  • 出身地:ドイツ ウルム市
  • 生年月日:1879年3月14日
  • 死亡年月日:1955年4月18日(享年 76歳)
  • ユダヤ人の物理学者。「相対性理論」など様々な理論を生み出した天才。

 

アインシュタイン 年表

年表

西暦(年齢)

1879年(0歳)ドイツのウルム市で誕生。翌年一家でミュンヘンに転居

1895年(16歳)スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験するも不合格。しかし州立学校に通うことを条件に入学

1900年(21歳)チューリッヒ連邦工科大学を卒業するも助手には採用されず、臨時教師や家庭教師のアルバイト生活

1901年(22歳)スイス国籍を取得

1902年(23歳)友人の父親の紹介で、スイス特許庁に審査官として就職

1905年(26歳)「光量子仮説」「特殊相対性理論」「ブラウン運動の理論」に関する論文を発表

1907年(28歳)世界で最も美しいと言われる数式「E=mc2」を発表

1909年(30歳)特許庁を退職。チューリッヒ大学の助教授に就任

1910年(31歳)プラハ大学の教授に就任

1912年(33歳)チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任

1913年(34歳)プロシャ・アカデミーの会員となり、ドイツのベルリンへ転居

1914年(35歳)ベルリン大学の教授に就任

1916年(37歳)「特殊相対性理論」から発展した「一般相対性理論」を発表

1921年(42歳)ヘブライ大学の建設資金を集めるために、アメリカとイギリスを訪問

1922年(43歳)フランスを訪問。日本を訪問する際に乗船した船のなかで、ノーベル物理学賞の報せを受ける

1923年(44歳)エルサレムとスペインを訪問

1929年(50歳)ベルギー王家を訪問

1930年(51歳)ベルリンの郊外に別荘を建てる

1932年(53歳)アメリカへ移住

1933年(54歳)プリンストン高等学術研究所の教授に就任。プロシャ・アカデミーを辞任

1935年(56歳)ポドリスキー、ローゼンと共に「EPRパラドックス」を発表

1939年(60歳)ルーズベルト大統領宛ての、原子力の軍事利用の可能性について触れた手紙に署名

1940年(61歳)アメリカ国籍取得

1943年(64歳)アメリカ海軍省兵器局顧問に就任

1946年(67歳)国連総会宛てに、世界政府樹立の提唱をした手紙を送る

1952年(73歳)イスラエル政府からの第2代大統領への就任を辞退

1955年(75歳)4月、ラッセル=アインシュタイン宣言に署名。腹部動脈瘤の破裂を起こしプリンストン病院に入院。18日に死去。

 

科学界をひっくり返したアインシュタイン

アインシュタインがその名を世に轟かせるようになったのは、

1905年、彼が26歳の頃からでした。

当時スイスの特許庁に勤めていた彼は、

仕事の合間を縫っては自身が長年温め続けていた理論を、

この年に次々と発表していきます。

光量子仮説:光が持つ二重の性質について説いた

特殊相対性理論:時間と空間が相対的な関係にあることを説いた

ブラウン運動の理論:原子や分子の存在を理論的に証明し、その存在論争に終止符を打った

など。

それまでになかった発想や切り口から説かれるアインシュタインの理論は、学界を大きく揺るがせ、物理学の常識を根底からくつがえしました。

その後、大学で教授を務めるようになってからも研究を続け、

特殊相対性理論を発展させた一般相対性理論は、現代でも様々なところで応用されています。

アインシュタインが様々な理論を発表し奇跡の年と呼ばれた1905年以降も、

数々の理論を世に生み出し、科学の発展に大いに貢献する人物となりました。

そして晩年には平和活動に参加し、核兵器の廃絶や科学技術の平和利用を唱え続けたのです。

 

アインシュタインの半生とエピソード

少年時代

現在では天才として知られているアインシュタイン。

しかし彼が幼少の頃は、家族に心配されることが多々ありました。

生まれたときは頭が大きく、奇形児なのではないかと思われ、

子供にしては太すぎる、と祖母に小言を言われ続け、

少年時代はほとんどしゃべらなかったと言われています。

特に会話に関しては、何か言葉を発する際にも非常にゆっくりで、

家族はアインシュタインのこの口の重さに、

知能障害が関係しているのではないかといつもハラハラしていました。

そして彼は大人になってからもアルファベットのスペルをよく間違えたり、

「R」を生涯反対にしか書けなかったりというように、

実際に何らかの言語障害を抱えていました。

それでも5歳のときにはプレゼントされた方位磁石から

見えない力の存在に気づいて興味を持ち、

9歳の頃には「ピタゴラスの定理」を自分で証明してみせます。

さらに12歳になると微分や積分を独学で習得し、

「ユークリッド幾何学」理解してしまったのです。

一説によればアインシュタインのこの天才性は、

彼の言語障害が関係しているのではないかと言われています。

言葉に関する理解が遅かったことで、物事を記号としてではなく、

柔軟な発想や想像をもって理解していく力が鍛えられた、と考えられるのです。

学生時代

言語障害天才性、アインシュタインのこの二面性は、

学生時代にも影響していきます。

数学や物理など、関心の高い分野では好成績を残す一方で、

言語や歴史などの分野ではテストでほとんど点数を取れません。

そして大学受験の際にも、彼はスイスのチューリッヒ工科大学を受験しましたが、

苦手分野が足を引っ張り不合格になっています。

しかしこの受験では、彼が得意とする数学や物理の点数で一位を取っていたため、

一年間ギムナジウムに通うことを条件に、翌年の入学許可が下りています。

そして大学在学時にも、興味のある研究に熱中し爆発騒ぎを起こしたり、

よく教授に反抗したり、その一方で興味のない分野の成績は最低評価を取ったりと、

なかなかの変わり者でした。

そんなアインシュタインは大学卒業後、教授の助手になることは叶わず、

友人の父親に特許庁での仕事を紹介されるまでは、

アルバイト生活をしながらなんとか論文を書き続けました。

親日家だった

1922年、既に世界的に有名な科学者となっていたアインシュタインは、

以前から興味を抱いていた日本で、1ヵ月以上にわたる長期滞在をしています。

そこで当時の大正天皇や日本を代表する科学者、ジャーナリスト、

更に一般家庭への訪問など、大正時代の多くの日本人たちと交流しています。

そしてアインシュタインは日本の芸術や風景だけでなく、

日本人の伝統的な「和」を重んじる考え方や生き方にも好感を寄せ、

日本が西欧的な競争社会に踏み出そうとしているなか、

純粋な日本の伝統が失われないよう願っていました。

 

きょうのまとめ

今回は20世紀の天才物理学者、アインシュタインについてご紹介しました。

アインシュタインとはどのような人物だったのか簡単にまとめると

① それまでの物理や科学の常識を根底からくつがえし、光電効果の発見によりノーベル物理学賞を受賞

② 天才性と言語障害の二面性により学生時代の成績も両極端になりやすかった

③ 親日家であり日本の文化的側面だけでなく、日本人の伝統的な生き方や考え方に好感を寄せていた

幼い頃から目には見えない世界の仕組みに興味を示し、

言語に不自由でも自由な発想で思考を続けたアインシュタイン。

その半生は、ただ言葉を記号として暗記することよりも、

自身の想像力がいかに大切かを教えてくれている気がします。

 
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