コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマが大いなる未知の海にこぎいだし。
イタリアではレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロといった新たな芸術家たちが躍動(やくどう)。
宗教界ではマルチン・ルターなどが宗教改革を。
そんな時代、学術界においても変革の波が!
その最初におどり出たのは地動説(※)を説いたコペルニクス。
(※)太陽を中心に地球が公転している、という説
真実が常識をくつがえす、まさに“コペルニクス的転回”な彼の人生とは。
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コペルニクスはどんな人
- 出身地:ポーランド・トルン
- 生年月日:1473年2月9日
- 死亡年月日:1543年5月24日(70才)
- 学術界のルネッサンスを呼び覚ました天文学者。「地動説」を提唱。
コペルニクスの年表
1473年(0才)コペルニクス生まれる
1491年(18才)クラクフ大学入学
1497年(24才)ボローニャ大学の天文学の教授のもとに下宿
1520~21年(47~48才)ドイツ騎士団の軍勢からヴァルミアの町々を守る戦いに加わる
1522年(49才)ポーランド王領プロシア議会の会議に貨幣の鋳造(ちゅうぞう)についての論考を提出する
1530年(57才)『天体の回転について』の執筆を始める
1542年(69才)『天体の回転について』の草稿をニュルンベルグの印刷所に届ける
1543年(70才)『天体の回転について』ニュルンベルグで出版。コペルニクス亡くなる。
コペルニクスの生い立ち
本名ニコラウス・コペルニクスはポーランド中北部にあるトルンの出身。
4人兄弟の末っ子、次男です。
お父さんは銅を商う豊かな商人でした。
しかし、お父さんはコペルニクス10才の時に亡くなります。
そこでコペルニクス兄弟を養ったのが叔父さんです。
この人はなかなか野心的な人で、教会のシステムの中でのしあがってやろう、と企んでおりまして、コペルニクス兄弟にラテン語や算術・絵画など英才教育をほどこします。
これが後のコペルニクスの偉業のいしづえとなってゆくのです。
コペルニクスの学生時代
特に当時のポーランドは東ヨーロッパを代表する大国です。
なので、「ほかのヨーロッパにも負けない」とばかりに国を挙げて文化事業にがんばっておりました。
コペルニクスはそんなポーランドの首都にある名門クラクフ大学に入学。
中退して今度はイタリアのボローニャ大学へ。
その後もヨーロッパ各地を転々として、
・幾何学
・化学
・医学
・法学
・占星術
・ギリシャ語
などかなり広範囲な学問を習得してゆきます。
コペルニクスはこういった人なので、いろんなことができます。
お医者さんをやったり、司祭をやったり。
ポーランドのライバルであるドイツ騎士団に攻め込まれた時は戦いに参加したこともあります。
さらにこの人は経済学においても画期的な発見をしております。
こんなことわざ聞いたことはありませんか。
悪貨は良貨を駆逐する
「悪貨は良貨を駆逐する」
同じ価値なのに質の悪いお金と質の良いお金があると、質の良いお金をみんなためこんで、質の悪いお金ばかりが世に出回ることを言います。
すると事実上のインフレ(物価が上がる)が起こってしまいます。
この法則を最初に見つけた人こそコペルニクスだ、と言われます。
コペルニクスは経済役人もやっておりました。
コペルニクスの地動説発表
そんなコペルニクスが天文学を研究していた時にひらめきがありました。
それが地動説です。
当時の常識は聖書などに書かれた天動説(※)。
(※)地球を中心に太陽が公転している、という説
しかし、天動説では惑星の動きがあまりに不自然。
そこで地動説で考えてみるとすべての惑星の動きがとても自然なものになったのです。
初めは世の中への影響の大きさを考え、おおやけに出版することは差し控えておりました。
しかし、ただ一人の弟子ゲオルク・レティクスの勧めにより、ついに出版を決意します。
コペルニクスの死の間際世に放たれたその作は、間もなくから世界中にとんでもない影響を与え続けることになります。
きょうのまとめ
ガリレオ・ガリレイ。
ヨハネス・ケプラー。
ティコ・ブラーエ。
アイザック・ニュートン。
……。
コペルニクスの功績をもとに次々とひらかれてゆくその世界。
そしてこれからも。
① コペルニクスは万能の天才
② コペルニクスの地動説発表は彼の死の間際
③ コペルニクスの唱えた地動説はその後の科学界に大きなセンセーションを与えた
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