則天武后。
中国の歴史を代表する悪女として知られております。
そんな彼女には何人かの子供がおります。
彼らのあまりに特徴的すぎる人生は則天武后という人の個性を強くあぶりだしてあまりあります。
当時、世界最大をほこった大帝国の中心ではいったい何が起こっていたのでしょうか。
花の都長安の夜に春の嵐が吹き荒れます。
則天武后の生き方をよくあらわす4男1女
李弘
唐の皇帝高宗と則天武后の間に生まれた長男です。
高宗のたくさんいる子供たちの中で、高宗が一番期待していました。
勉強も運動もできて、性格もおだやかで、人々に信頼されておりました。
李弘は皇太子に立てられます。
しかし、そんな李弘に異変が起こります。
まず、ここでおさえておかなければなりません。
高宗には則天武后のほかにも何人かの妻がおります。
その中でも高宗に愛されることを則天武后と特に競った二人の女性、それが
●蕭淑妃
です。
二人は則天武后に“罪人”とされ処刑されます。
さて次に、李弘の母親のちがうたくさんのお兄さんについて紹介せねばなりません。
李弘の一番目の兄李忠は皇太子でした。
しかし、則天武后に殺されることを恐れ、いつも女装していたといいます。
が、そんな苦労もむなしく李忠は庶民に落とされ、軟禁、そして死。
三番目のお兄さん李上金は則天武后ににくまれ、左遷されます(やがて、自殺します)。
四番目のお兄さん李素節はあの蕭淑妃の子です。
李素節は母の死にあわせて左遷、一時は「一生監獄送り」とされます(やがて、則天武后に殺されます)。
話を李弘にもどしてみましょう。
李弘は心をもちくずしました。
そして、母則天武后ともケンカするようになってしまいます。
李弘は22、3才ごろ亡くなりました。
李賢
高宗と則天武后の間に生まれた2番目の男の子です。
兄李弘の死によって皇太子に立てられました。
しかし、朝廷のある家来が則天武后に
「李賢の皇太子を辞めさせてさらに弟の李顕(後の中宗)にゆずらせよう」
と提案します。
しばらくして、この家来が突然強盗におそわれて死んでしまいます。
則天武后は李賢をあやしみ、その屋敷をあらためさせると、甲(かぶと)がいっぱい見つかりました。
そして、李賢も庶民に落とされると、地方に流され、やはり軟禁、死、となってしまいました。
中宗
李賢の後、皇太子になります。
高宗が亡くなると、その跡を継ぎ、皇帝となりました。
“しかし”、というより“当然のことながら”でしょうか。
中宗は母則天武后を警戒します。
そして、自分の奥さん韋皇后とその家族をたよります。
が、則天武后によって一蹴。
則天武后は中宗を皇帝の座から引きずりおろすと、次はさらに弟の睿宗を即位させました。
やがて、中宗は則天武后時代の最晩年に皇帝の位をゆずられます。
が、さらなるどんでん返しです。
中宗は政治の実権を奥さん韋皇后やその娘安楽公主によって奪われ、またやられたい放題。
ついには韋皇后の不倫がバレそうになると、韋皇后は中宗と安楽公主を毒殺。
まだ間もなくこの“花の嵐”は吹きすさび続けます。
睿宗
睿宗。中宗の跡を継いで皇帝に即位しました。
もはや則天武后のあやつり人形でしかありません。
そして、ついに則天武后の究極の大技が待っていました。
「皇帝は私だ!」
ついでに国の名前は「周」と改めます(今は「武周」と呼ばれます)。
もちろん、睿宗は皇帝お役ごめんです。
ただこの人、晩年には李隆基(後の玄宗)と組み、韋皇后一派をやっつけ、皇帝に復位しました。
そして玄宗へと、そのバトンをきっちりわたしきります。
太平公主
末娘です。
もう彼女にもどんな悲惨な仕打ちが待っているのだろう、と思っているでしょう。
安心してください。
彼女は則天武后と息ピッタリでした。
見た目も性格もお母さん似。
強力な母娘タッグの完成です。
ただ、則天武后の晩年に則天武后の愛人たちがやりたい放題を始めました。
そこで太平公主もついにこぶしを振り上げます。
母の愛人たちを打ちはらい、母親を帝位から引きずりおろしました。
やっぱりお母さんとよく似ています。
この時、則天武后はどんな気持ちだったでしょうか。
その後、安楽公主や韋皇后との女たちの泥沼のかけひき。
やがて割って入った玄宗によって一人、二人、と蹴落とられ、太平公主の死によって“花の嵐”は完全に終わりを告げました。
きょうのまとめ
② 則天武后は自分の子供たちでも容赦なく使い捨てにしていった
③ 則天武后の最後はまるで因果応報のように花は色あせ、枯れた
則天武后の権力のにぎり方は「ライバルは徹底してつぶす」です。
ただ、それが自分の子供たちをも敵に回すとは、思っていたのでしょうか。
そして、彼女にとって“やるべき”はおそらくそれしかなかった。
則天武后の帝王道です。
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