遣隋使でおなじみの煬帝(ようてい)。
でも、どんな人だったかはあまりなじみがありません。
隋はすぐ滅んでしまいますし。
そうなんです。
煬帝は隋が急激にこわれゆく時の皇帝なんです。
遣隋使の時はあんなに偉そうにプンプン怒っていたのに……。
そんな滅びの皇帝の栄光と末路ってどんなだったのか、探ってみませんか。
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煬帝はどんな人
- 出身地:?
- 生年月日:569年
- 死亡年月日:618年4月11日(49才)
- 隋の皇帝。日本の遣隋使をむかえる。
煬帝の年表
569年(0才)煬帝生まれる
581年(12才)父楊堅が隋を成立させる
589年(20才)隋が中華を統一
604年(35才)楊堅亡くなり、煬帝が皇帝に即位
607年(38才)日本からの遣隋使小野妹子が来朝
612年(43才)第二次高句麗遠征
613年(44才)第三次高句麗遠征。このころから各地で反乱続発。
614年(45才)第四次高句麗遠征
618年(49才)煬帝、部下に殺される
619年 隋滅亡
父楊堅、隋を興す
煬帝のお父さん楊堅の時代、中国はいくつかの国に分かれたがいに争いあっておりました。
楊堅はその中の北周という国のトップ軍人です。
楊堅は次第に力を付け、ついに北周を乗っ取ってしまいます。
隋の建国です。
なんと、この時楊堅は北周の皇族を手当たり次第に殺してしまいました。
これが隋にとって大きな影響として残ります。
楊堅から煬帝へ
589年隋はついに中華を統一。
これは300年ぶりのことです。
楊堅の時代、科挙(試験による役人選抜制度)を始めたり、お金や兵・土地の制度を整え、その革新的な政治のやり方は後代の見本となります。
やがて、楊堅は死去。
跡を継いだ煬帝は積極的な事業を次々に行います。
代表的なものは2つ。
まず1つ目が
運河の建設
煬帝は
●物資の豊かな江南地域(今の長江下流あたり)
●高句麗に近い華北
の3つを横Yの字に運河で結んでしまいます。
この大工事にはかなりたくさんの人たちを働かせました。
この大運河は物資の移動をとてもスムーズにし、中国後世における流通・経済の発展にとても役立ちました。
そして、2つ目の積極事業が……?
高句麗遠征
高句麗とは今の朝鮮半島北部から中国東北部広くにまたがった国です。
煬帝は3年立て続けにここへ遠征をおこないますが、どれも失敗します。
ちなみに、その少し前に日本からやってきたのは……?
遣隋使
遣隋使です。
隋としては日本と高句麗が手を結びでもしたらやっかいです。
日本側はその辺を見すかして
「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや」
などと強気の外交で押し切ろうとします。
煬帝は最初怒りますが、それ以上こじれるようなことはひかえました。
滅びの皇帝煬帝
実はむかしから煬帝といえば“暴君”として有名でした。
上に見てきたようなあまりに大規模な土木工事、戦争の数々。
国への負担があんまり大きく、各地で反乱が相次いでゆきます。
なんだ、やっぱり“暴君”じゃん。
と思われるかもしれません。
が、ここで気を付けなければならないことがひとつ。
それは歴史のお決まりパターンです。
「勝てば官軍負ければ賊軍」
ということわざがあります。
歴史を書くのは歴史の勝者なのですね(敗者が書くのが文学だ、という説です)。
隋は間もなく滅ぶのですが、そんな隋煬帝のダメダメぶりを書き散らしたのは次の王朝唐です。
本当にあったことなかったこと、自分たちの都合のよいように書き記す、というのはよくあること。
確かに煬帝の大がかりな事業の数々は深刻な影響もあったのでしょうが、もうひとつピックアップされているものに、先に一度示しましたね。
煬帝のお父さんが北周の皇族をたくさん殺したことです。
それほどの恨みをこの世に遺してしまったことが、煬帝の肩に大きくずしりとのしかかったのでは、といわれております。
そうすると、煬帝というのはちょっと切ないですね。
隋は相次ぐ反乱によって見る見るこわれてゆき、煬帝は最後部下に殺されてしまいます。
隋王朝の命運は間もなくつきました。
そして、
●春秋戦国→秦→漢
パターンがよく似ています。
ここまでにいたる中国乱世における各王朝(もちろん北周や隋もふくみます)の様々な文化や制度がベースとなり、大国際国家唐300年の繁栄が始まるのです。
きょうのまとめ
歴史には勝者と敗者があります。
何かと悪者にされがちな敗者。
しかし、そういった人たちを洗いなおし、見つめなおすことも歴史の正しい意義です。
① 煬帝の父楊堅が隋を興した
② 煬帝の2大事績「大運河建設」「高句麗遠征」
③ 煬帝は“暴君”呼ばわりされているが、本当にそこまでのダメ君主なのだろうか
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