応仁の乱では京の都をどこかれ構わずと燃やし尽くし、一面荒れ野と変えてまでなお、いつ果てるとなく戦いあった
東軍リーダーの細川勝元と
西軍リーダーの山名宗全。
この巨頭ライバルお二人のお墓にまつわる妙な因縁。
そして、乱にかかわったいろんな方々の墓所も同時に紹介します。
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細川勝元と山名宗全のお墓の因縁
細川勝元のお墓があるのは竜安寺。
枯山水による方状庭園の美しい景観で有名。
臨済宗妙心寺派、京都は盆地です。
東北西には山がしきっており、竜安寺はその北西部、すぐ後ろにはもう山がせまっております。
北山こと金閣寺なんかが近くにあります。
東軍リーダーですが、西の方から京の町を今も静かに眺めていらっしゃいます。
一方、山名宗全は、
南禅寺。
臨済宗総本山のとても大きなお寺です。
現世では壮絶にやりあったけれど、同じ禅宗の臨済宗。
近くは湯葉が有名で、あつかう料亭がそれぞれひっそり上品に構えております。
そして、こちらは位置的に京の東の一番はずれ。
平安神宮やら清水寺よりももっと東。
あと少し峠を越えたらそこは山科です。
琵琶湖疎水やその流れから京都市民をまかなう浄水場がすぐそばにあります。
亡き宗全公は今も悠然と京の町を見下ろしていらっしゃるのでしょうか。
ちなみに竜安寺、南禅寺これら歴史的名刹は両方とも、応仁の乱にあって消失しております。
おそらく、あなたが京都になじみがあるなら、すでにその火勢におどろきあきれいっているのではないでしょうか。
ちなみに再建は竜安寺が勝元の子政元。
南禅寺が江戸時代初期黒衣の宰相以心崇伝です。
乱にまつわるいろんな人のお墓
さて、ではほかの応仁の乱にまつわる人々のお墓はどこにあるのでしょう。
まず、将軍足利義政。
相国寺。
臨済宗相国寺派、御所の少し北側。京都のだいぶ街中ですね。
東西両陣営でなら少し東寄り。
その弟で将軍候補。
応仁の乱中は右往左往した義視の御影堂はやはり相国寺。
こちらは足利義満の発願によって創建されたお寺。
足利家とのゆかりがとても深いのですね。
また、義政の妻であり、乱に乗じて大名らに高利貸しなどをして私利私欲をむさぼった欲の権化とも乱を現実的なやり方で鎮めた賢女ともいわれる
日野富子は華開院。
当時は天台宗(今は浄土宗)。町中、西寄りですね。
西軍に大軍をもってはせ参じた大内政弘は、その領国山口市五十鈴川ダム近くの森の中でひっそりと眠っていらっしゃいます。
そもそも乱のきっかけとなった御霊合戦の東軍方大将・畠山政長は大阪市平野区の住宅街のただなかにつましく。
一方、政長と家督を争い、武辺一倒に暴れまくった畠山義就はさすがにそのやんちゃくれた生きっぷりを反映してか、その墓所が見当たりません。
もし、ご存知でしたらご一報ください。
斯波氏の守護代でありながら西軍方について主要合戦で次々活躍。
やがて、守護に任じてもらう密約から東軍に寝返り、これを契機として越前に後の戦国朝倉家の地盤を築いた朝倉孝景はその本拠である一乗谷の英林塚に。
きょうのまとめ
山名宗全と細川勝元はもともと仲が悪かったというわけではありません。
おたがい姻戚関係にありましたし、
手をたずさえあって畠山持国(政長の伯父、義就の父)に対抗したりもしました。
ですが、それもいつまでも続かず、あんなことにまでなってしまいました。
① 細川勝元のお墓は自身創建にかかわった竜安寺
② 山名宗全のお墓は臨済宗総本山南禅寺
③ 応仁の乱にかかわった人々のお墓はそれぞれ領国や戦場となった京などに葬られている
もともとこの政争とは何の関係もないのに、
彼らのおかげで亡くなってしまわれたあまりにたくさんの方々は今どこに眠っているのでしょうか。
追伸、これが日本全国で以後百年以上延々と繰り広げられる戦乱の時代のほんの幕開けにすぎないのはご承知の通りです。
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