応仁の乱で西軍指導者にもなった剛腕親分「赤入道」こと
山名宗全。
武家の名門山名氏の家系図を宗全の前にも後にも洗いなおしてみましょう。
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山名宗全の家系図
まずは、山名宗全の家系図をみていきましょう。
山名氏の起こり
山名氏は清和源氏の流れをくみます。
平安後期に東北地方で起こった戦乱
・前九年の役(1051~1062年)
・後三年の役(1083~1087年)
で活躍した八幡太郎義家の嫡流を継いだ義親の流れが義朝、頼朝へと続く源氏宗家。
義親の弟・義国。
義国の長男が義重、新田家の祖。
弟の義康が足利家の祖となります。
義重の側室の長男が義俊。
安房(千葉南部)に栄えた里見氏の祖。
次男義兼が新田宗家を継ぎ、南北朝の争乱期にはその子孫義貞が活躍します。
そして、そんな義重の子らのうち極端に冷遇され、上野(今の群馬県)国多胡郡山名郷にほんのわずかにしか領地を与えられなかったのが、
義範です。
が、時はいよいよ源平合戦。
源頼朝による平家打倒の檄に、父義重はなかなか応じようとしません。
が、義範はすぐさま頼朝のもとにはせ参じ、
「殊勝である」
として伊豆守に任じられました(これに対し父義重は参陣が遅れ、新田氏は鎌倉時代を通じてあまり優遇されませんでした)。
山名氏の黄金時代
やがて南北朝の時代に入ると、山名当主時氏が北朝方に参加。
湊川の戦い(今の兵庫県神戸市湊川で足利尊氏率いる北朝方が、楠木正成・新田義貞らの率いる南朝方を破った戦い)などで活躍します。
足利尊氏とその弟義直の政権争いには義直方につき、たびたび奮戦。
その後、紆余曲折があって室町幕府方に内応しますが、領国は安堵され、
・一色
・京極
とならぶ四職に数えあげられるほどになります。
その後も山名氏はいよいよ台頭。
時氏の長男から五男までの任じられた守護職を合わせるとなんと11か国。
当時日本全国66か国ですから、六分一殿とまでたたえあげられるようになりました。
しかし、それを快く思わないのが陰謀家の足利義満です。
まずたくみに彼らの仲たがいをあおりたて、一方を賊軍の大将として祭り上げると征伐。
さてさてそれから、山名にも義満方となった一派。
義満はもう怖くないと思ったのか彼らに突然冷たく当たり始めます。
すると、彼らは暴発!
一時は京の都を占拠するほどになりますが、
義満らの征討軍によってあえなく敗退。
結果、山名氏全体の勢力は大いにそぎおとされることとなってしまったのです。
そんな理不尽な冷や飯を食べさせられている時期に山名惣領家を継いだのが持豊。
隣国播磨の守護職赤松満祐の起こした嘉吉の乱(1441年、赤松満祐が時の将軍足利義教を自分の屋敷に招いて突然暗殺)
にいち早く反応して、総大将として鎮圧軍を差し向け、その功から備前・播磨・美作の守護職に任じられ、山名の全盛期を取り戻します。
ちなみにこの持豊、出家して宗全と名乗ります。
“赤入道”山名宗全。
その後もごり押し親分肌大暴れです!
乱世から現代へ
野心満々のクセ者おやじ宗全は将軍や大名家の後継争いをみずから進んでこじれさせ、1467年応仁の乱をひきおこします。
その西軍の大将となり、全国の大名や将兵を率いますが、事態は予想以上にこじれにこじれてゆく一方。
ついに、その収拾がつかぬ間に没すると、乱世の流れで山名はみるみる先細りとなります。
やがて無禄にまで落ちぶれていたのは当主豊国。
豊国は関ケ原の戦いで東軍に付き、起死回生、旧領の一部を回復。
江戸時代には高家旗本として脈々と続いてゆきます。
明治には男爵家に列せられ、
戦後には民主社会党(のちの民社党)を結成した山名義鶴さんが知られております。
きょうのまとめ
① 山名氏は清和源氏の末裔。新田氏や足利氏とも血縁の近い名門である
② 山名氏は鎌倉から次第に力をつけ、室町時代には「六分一殿」と呼ばれるほどの黄金期があった
③ 山名宗全の子孫には民社党を起こした山名義鶴さんがいる
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