「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや。」
歴史で一度は聞いたことがあるフレーズですね。
聖徳太子が当時中国にあった大国隋に送った使節が遣隋使。
そして、その皇帝煬帝(ようてい)へあてた国書に記されておりました。
じゃあ、煬帝はなぜこのフレーズにぶちぎれたのでしょうか。
「太陽の上る国から太陽の沈む国へ、という解釈にカチンときたから」
これが一説として強く支持されております。
しかし、ほかにも怒った理由がありました。
教えて、煬帝先生!
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煬帝が怒った理由
①太陽の上る国から太陽の沈む国へ
煬帝「うむ。よくぞ聞いてくれた。
確かに太陽の上る国から沈む国。
腹が立つのう。
じゃがな、
太陽の上るところ=東
太陽の沈むところ=西
というタダの方角でしかない意味付けは当時特にめずらしいことではないんじゃ。
ほら、あのころ隋でも日本でも仏教が大流行りだったじゃろ。
仏教用語ではそれがフツーなんじゃ。
実は、それよりももっと朕(ちん。皇帝が使う“私”の意味)をプンプンにさせてしまった気になるフレーズがあると、最近話題になっておる。
それが……。」
②天子は二人いらん!
煬帝「あの国書をよく見てみろ。
日本側も天子と名乗っておるじゃろ。
天子とは皇帝。
天に代わって地上を治めるただ一人の人間じゃ。
天子は二人いらん!
なにせ、朕の中国には伝統的に「中華思想」というのがある。
つまり、世界の中心は朕で、それをもとに朕の国家があって、さらに周りにほかの国々がある、という感じじゃ。
だからどこぞのよその国が天子を名乗るなどとは許せぬ!
プンプンじゃ!」
隋が日本にあまかった理由
ところが、隋はその後、きっちり日本に使者を送っております。
別に国交断絶もなく、遣隋使はあと3回繰り返されることになります。
なぜなのでしょうか。
煬帝「うむ、それはちょっとしぶい話なのじゃが……。
当時の朝鮮半島情勢について見てほしいのじゃ。
北に高句麗。
東に新羅。
西に百済。
三国がならび立っておる。
朕の隋は高句麗と朕の先代文帝のころから戦争をやりあうほど仲が悪かったんじゃ。
だから、朕がプンプンしたところで、日本には下手に手出しできない。
日本が高句麗の仲間にでもなってしまったらめんどっちいじゃろ。
日本の聖徳太子もしたたかなものでその辺足元を見すかしていたんじゃ。
なかなかやるものじゃの」
遣隋使はあの時が初めてではなかった
さて、ここまでは隋側の立場を見ていただきましたが、日本側の立場もぜひおさえておきたいですよね。
そこで、この方のご登場です。
太子さん、ぜひぜひ遣隋使にまつわるトリビアをいくつか。
後々の伏線っぽいですよね。
日本側の国際事情と国内事情
というのもそれまで朝鮮半島南部に日本の影響がおよんでいたのだ。
で、日本としてはその影響をますます強めたい。
実はあの遣隋使の前に何度か新羅遠征すらおこなっているのだ。
当時、朝鮮半島の国々は、隋にみつぎものを贈(おく)る、という形をとっている。
しかしここで“日本は隋と同等だぞ”ということを示せれば、その後朝鮮半島情勢において、何かと有利になるだろう、という算段である。
なるほど、そういう国際情勢がいろいろとからんでいたのですね。
聖徳太子「もちろん国内の有力者たちに示しも付けておきたいしの。
天皇が隋の皇帝の子分ということでは、国内の者らの意思がバラバラになって“天皇親政”がやりづらくなる。
私たちの目指す改革がむずかしくなってしまうのだ。」
きょうのまとめ
実はあの遣隋使、ほかにも、隋からの返書を小野妹子がなくしてしまう、というトラブルがあったりと、意外なトリビアに事欠きません。
① 遣隋使で煬帝を怒らせてしまった理由として「天子が二人書いてある説」が近年大きくクローズアップされてきている
② 当時、隋は高句麗と仲が悪かったため、無礼な国書にあっても隋は日本にあまくするしかなかった
③ 当時、日本政府は国内や朝鮮半島の情勢を見すえ、隋と対等の国交を結んでおきたかった
煬帝「もう、太子のヤツ、プンプンじゃ!」
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実は遣隋使というのはあの時のが初めてではない。
さかのぼることそれより7年前、当時隋は煬帝の親父殿、文帝の時代であった。
あの時、わが日本の使者は文帝にこう言った。
『日本では天を兄とし、日(太陽)を弟としております。
なので政治はまだ日の明ける前からやって、明けると弟である日に続きをあずけるのです。』
素晴らしいやり方でしょ、ということである。
しかし、文帝は『それは理屈に合わないな』とたしなめてきおった。
さりげなくここに日の話が出てきているところが意味深だろ。」