その死の報告に接し、勝海舟は日記にこう認めたと伝わります。
「徳川家今日滅ぶ」
徳川14代将軍。その生涯わずか20年。
さまざまな才能や個性が乱れ咲く、激動の幕末にあって大変にもの静かで地味なイメージですが、
勝海舟に「もう少し長く生きていれば」と驚かせたほどの素晴らしい資質。
夕日のように沈みゆく幕府のトップとして駆け抜けた
徳川家茂の死因を見てまいりましょう。
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徳川家茂、”運命の一戦”を前にして
徳川家茂の亡くなったのは1866年8月29日。
第2次長州征伐、出征さなかのことであります。
第1次長州征伐などの危機を経験しても、あくまで討幕の意思の堅い長州藩を15万という大軍で囲みます。
兵の数では長州方3500人のなんと40倍以上。
金扇の馬印(かつて徳川家康が使いました)を掲げ、幕軍総司令官として臨んだこの時の家茂の心持ちとはいったいどういったものだったのでしょうか。
「徳川家今日滅ぶ」
しかしその戦争中、家茂は大坂城にて倒れます。
その容態を気遣い、朝廷からも幕府からも医者たちを急派!
家茂の容態もさることながら、前線における戦況は思いがけないものとなってゆきます。
各地で長州方が圧倒!
長州はかねてより坂本龍馬の亀山社中を通して最新式の武器弾薬・蒸気船を調達。
あいかわらず旧式の武器で(かねてより西洋式に軍制改革を進めていた虎の子の「幕府陸軍」はある程度善戦しました。が、全体の敗勢を挽回するには遠くいたりませんでした)、
しかも家康時代以来のしきたりどおりに、戦意の低い西国諸藩に先方を任せ、もうまるで相手になりません!!
そんな敗色濃厚のさなか、徳川の若きリーダーはあえなく息を引き取ってしまいます。
徳川家茂の死因最有力とされる脚気(かっけ)の恐ろしさ
さて、そんな徳川家茂の死因ですが、最も有力な説は
脚気です。
そうです。
栄養が不足するとおちいってしまう、膝の下をたたいてもポーンと“ならない”アレです。
脚気の原因、くわしくはビタミンB1の欠乏です。
心不全や末梢神経障害を引き起こし、重症になると死をも招きます。
江戸時代にはそれまでの麦飯、雑穀飯から“白米”中心の食文化が広がったため、急激にその罹患者が増え、
「江戸わずらい」
とも呼ばれておりました。
のちに高級軍医でもある森鴎外が、
を押し通し、
日露戦争で陸軍に25万人の脚気患者が発生し、2万7千人が亡くなるというとんでもない大失態をやってしまいました。
明治に入っても、この病気で亡くなる人が毎年6500~15000人。
大正時代ですら結核と並ぶ2大国民亡国病。
1970年代以降にもジャンクフードの普及や偏食で問題としてよみがえることもありました。
今なおもってアルコール依存症患者や食品購入の不自由な高齢者などにとって
油断のならない病気であることには変わりありません。
徳川家茂は”虫歯”にものすごくなりやすい体質
どうやら徳川家茂、
かなりのあまいもの好きです。
ちなみに家茂の好物「おしながき」はこちら。
・氷砂糖
・金平糖
・カステラ
・懐中
そして、虫歯もかなり深刻。
もともと歯のエナメル質が極端に薄く、すでにその遺骨の調査から
残存31本中30本が虫歯と判明!
こうして偏食がますます加速。
そして、とうとう脚気が重症化してしまったというわけのようです。
また、侍医の間で漢方医たちは脚気と主張したのに、
西洋医たちはリウマチと主張してゆずらなかったのも原因ではないかといわれております。
やはりあった!徳川家茂暗殺説
これは家茂の亡くなった当時からささやかれた説ですが。
と申しましても、歴史上の偉人というのはおおよそそういう噂からは避けられぬ運命ですが、
やはりあります。
暗殺説。
あの篤姫様はだんなの家定が暗殺された可能性をぬぐいされなかったことからも、この可能性を大変に疑いました。
なんせ江戸に運ばれた家茂の死体の肌は黒ずんでいたといわれます。
家茂には長州や一橋派など、恨む人も多いですから、そうささやかれるのも無理はありません。
きょうのまとめ
ただでさえこの激動の時代においてこの重すぎる役職の激務とストレス。
その点、次代を継ぐ徳川慶喜はいろんな意味において
頑強でした。
家茂は死に臨んであなたを次代には指名していないのですがね(指名したのはのちの”16代”になる家達です)。
① 徳川家茂は幕府の天王山”第2次長州征伐”の総指揮官として出征さなかに亡くなった
② 徳川家茂の死因最有力は脚気
③ 徳川家茂には暗殺説もささやかれている
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