無知の知、問答法などで知られるソクラテスは、哲学の創始者として自ら人間の生き方を問い、人々に広めていこうとしました。
弟子たちにプラトンやアリストテレスといった有名な哲学者も多く、その教えは後世に渡って大きな影響力を持ったといえるでしょう。
しかしソクラテスは、高名な思想家であると共に、民衆の反感を買って、死刑にされてしまった人物でもあります。
どうして優れた哲学者である彼が、そのような悲劇を辿ってしまうのか…。
ソクラテスは一体どんな人だったのか、彼の人物像にその生涯から迫っていきます。
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ソクラテスはどんな人?
- 出身地:古代ギリシャ・アテネ
- 生年月日:紀元前469年
- 死亡年月日:紀元前399年4月27日(享年70歳)
- 世界で最初に「人はどう生きるべきか」を考え始めた、哲学の創始者
ソクラテス 年表
西暦(年齢)
前469年(1歳)古代ギリシャ・アテネにて石工の父ソプロニスコスと、助産婦の母パイナレテの間に生まれる。
前431年(38歳)ペロポネソス戦争が勃発。重装歩兵としてアテネ植民地の反乱鎮圧に駆り出される。
前425年(44歳)アポロンの神託所の巫女の言葉から、賢者に対する問答を行い、自らの無知を証明しようとした。
前415年(54歳)賢者を名乗る者の多くが本質をわかっていないことに気付き、「無知の知」を広めていくことをライフワークとする。
前400年(69歳)「無知の知」を広めようと、権力者を論破して回ったことが反感を買い、裁判で死刑を宣告される。
前399年(70歳)幼馴染クリントンからの脱走の提案を断り、毒杯を飲んで死亡する。
「無知の知」を広めていくことがライフワークに
ソクラテスは晩年、自分を知恵者だと思っている者に、無知だということを気付かせることをライフワークにしています。
彼は質問を相手に重ねていくことで理解へ導く問答法を使い、多くの人の気づきを促しました。
ソクラテスはいかにして、この無知の知を広めることに生涯をかけてもいいと考えたのでしょうか。
実は彼のこのライフワークは、自分の無知さ加減を証明しようという行動から始まっています。
「ソクラテス以上の賢者はいない」という言葉への疑問がきっかけ
あるときソクラテスの弟子・カレイフォンが、デルポイの街にあったアポロンの神託所にて、「ソクラテスより賢い者はいるか」と尋ねました。
そのとき、神託所の巫女から返ってきた言葉は「ソクラテス以上の賢者はいない」だったのです。
これを聞いたソクラテスは喜ぶのではなく「そんなはずはない」と耳を疑いました。
神託所というのは神様にお伺いを立てる場所ですから、これはソクラテスが優れた賢者であることを、神様が認めたのと同じことになります。
しかし彼は自分が無知であることを自覚しており、神託所から託されたその言葉を信じることができませんでした。
そこから知恵者と呼ばれる者を訪ね、問答を行うことで、自らの無知さ加減を証明しようとしたのです。
普通の人なら、物を知らないと思われてしまうことは恥と考えるでしょう。
それをわざわざ立証しようとしたソクラテスは、謙虚とも取れますが、やはり相当な変わり者ですね…。
知恵者と呼ばれる者に本質を捉えている者はいなかった?
ソクラテスの、自らの無知さを証明しようとする行動こそが、彼の「無知の知」という考え方に繋がっていきます。
なんと知恵者と呼ばれるほとんどの者は、ソクラテスの問答に対して、まともに答えることができなかったのです…。
つまり自分を知恵者だと思っている者の中に、物事の本質を理解している者はいなかったということ。
ソクラテスはそんな知恵者と呼ばれる者たちに対し「これなら、無知だということを自覚している自分の方がまだ賢いかも…」と思いました。
そこから人々に自分が無知であることを自覚させようという、ソクラテスのライフワークが始まるのです。
裁判にかけられ死刑に
裁判にかけられたのは時代の風潮もあった
ソクラテスが無知の知を広めようとしたのは、人々を良い方向に導こうという想いからでしたが、それとは裏腹に、権力者たちからは反感を買うことになってしまいました。
最後は裁判にかけられ、死刑を宣告されてしまうのですが、ソクラテスが裁判にかけられたのは、単に権力者たちがプライドを傷つけられただけではないとする説もあります。
ソクラテスが自らの考えを広めようと活動していた時期は、アテネを取り巻く情勢が大きく揺らいでいた時期でもありました。
その時世も後押しして、人々のソクラテスへの反感も強まっていったというのです。
ソクラテスが活躍したのはアテネ衰退の時期
紀元前431年のこと、アテネとスパルタによるギリシャの覇権を争う戦い「ペロポネソス戦争」が勃発します。
そしてこの戦争にアテネは敗北し、ソクラテスが活動していた晩年は、国内に敗戦による重苦しいムードが蔓延していました。
この敗戦やそれに伴う国の変化が、民衆の間で、ソクラテスの思想が広まった影響だとされていた説があります。
敗戦の一因とされる、アテネ軍の覇権を握っていたアルギビアデスは、ソクラテスの影響を受けていたうちの一人です。
また敗戦によってスパルタ側から圧力がかかり、アテネには三十人政権という独裁国家が築かれることになりました。
その三十人政権の中心人物にも、ソクラテス派がいたといいます。
敗戦の原因を作ったのも、国の体制を変えてしまったのも、中心になったのはソクラテスの思想を支持している人物。
よってソクラテスは、アテネの情勢を悪化させたと捉えられていたというのです。
考えてみれば、権力者がプライドを傷つけられたからといって、死刑になるというのは刑が重すぎる気がします。
しかしその思想を伝えたことで、国が大きく変わってしまったというのなら、国民の大半から反感を買い、死刑を宣告されてしまったことにも合点がいきますね。
ソクラテスは不細工だった
ソクラテスの弟子であるプラトンは
という言葉を残しています。
哲学の祖として知られるソクラテスの賢さを引き合いに出しているぐらいですから、きっと見るにたえない不細工だったのでしょう。
プラトンはソクラテスへの尊敬の念から、多くの情報を残そうと思ったのでしょうけど、残すにしても不細工だということまで残さなくても…。
ひょっとすると「不細工だから嫌い」といった理由で、その思想に反感を覚えていた国民もいたかもしれませんね…。
きょうのまとめ
ソクラテスが広めようとした無知の知は、すなわち「おごることなく、謙虚でいよう」と促すものです。
自信過剰だといさめられるわけですから、そりゃあ反感を買うこともあるでしょう。
しかしそんな簡単な話でもなく、実情は国を取り巻く情勢も深く関わっているとする線が強いです。
いずれにしても、ソクラテスが随一の影響力を持った哲学者であったことには、変わりありませんね。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。
① ソクラテスは自らの無知を証明しようとする過程で「無知の知を広める」というライフワークに辿り着いた
② ソクラテスが活動していた時期は、国内は敗戦ムード一色。その雰囲気も彼の死刑を後押しした可能性がある
③ ソクラテスはすごく不細工だった
しかし当時は多くの人から嫌われていました。
これには「出る杭は打たれる」という言葉を連想させられます。
ソクラテスだけでなく、歴史上に功績を残している人たちには、嫌われ者も意外と多いのかもしれませんね。
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