ウィリアム=シェイクスピア(William Shakespeare)とは、
四大悲劇をはじめ演劇史に残る名作を数多く残し、劇聖と謳われた人物です。
16世紀末から17世紀初めごろのイギリステューダー朝時代に、詩人や劇作家はもちろん役者としても活躍しました。
シェイクスピアの死後も、ロマン主義画家のブレイクやフュースリなどが彼の作品を愛し、『マクベス』や『真夏の夜の夢』、『テンペスト』などの名作の登場人物を描いた名画を残しています。
彼の作品は、現在も舞台で講演されており、誰もが一度は読んだり見たりしたことがあると思います。
シェイクスピアとはどのような人物だったのでしょうか。
簡単にご紹介します。
タップでお好きな項目へ:目次
シェイクスピアはどんな人?
- 出身地:イングランド王国、ストラトフォード・アポン・エイヴォン(洗礼)
- 洗礼を受けた日:1564年4月26日
- 死亡年月日:1616年4月23日(享年52歳)
- 『ロミオとジュリエット』をはじめ数々の名作を残した劇作家
シェイクスピア 年表
西暦(年齢)
1564年(1歳)イングランド王国、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで洗礼を受ける。生まれた日は諸説あり不明。
1577年(13歳)父が経済困難に。
1582年(18歳)8歳年上のアン・ハサウェイとでき婚。
1587年(23歳)11人の大家族を支える重荷に耐えられずロンドンへ失踪。
1594年(30歳)リチャード・バーベッジと宮内大臣一座に加入。
1599年(35歳)グローブ座が建設される。
1603年(39歳)宮内大臣一座が国王一座となり益々活躍の場が広がる。
1611年(47歳)故郷スラットフォードに帰郷し隠居生活を送る。
1616年(52歳)死亡(死因は不明)。ホーリー・トリニティ教会に埋葬。
シェイクスピアの幼少時代
シェイクスピアの誕生
シェイクスピアは、羊毛取引や貸金業、不動産で財を成し、市議会議員を経て町長にもなった父ジョンと
ジェントルマン(紳士階級)の娘でジョンより10歳年下の若き妻メアリーとの間に生まれました。
シェイクスピアの洗礼日は、1564年4月26日。
生まれた日は不明です。
伝統では誕生日から3日以内に洗礼を受けるので、シェイクスピアが生まれた日は4月23日とするのが一般的のようですが、諸説あり21~23日が有力とされています。
シェイクスピアが生まれた年にはペストが流行りましたが、娘2人を早くに亡くしていた彼の母は、自分の実家にシェイクスピアを連れて帰っていたために感染せずにすみました。
誇らしく思っていた父の姿
市議会議員時代のジョンは、聖日や公の祭日には毛皮の黒いガウンと瑪瑙の指輪をはめていました。
※瑪瑙:石英・玉髄・蛋白石の混合物。帯状の美しい色模様をもつ。印形・飾り石などにする。
幼いながらにシェイクスピアは、ジョンの凛々しい姿を誇りに思っていたようです。
後に、名作『ロミオとジュリエット』の中で、町役人の一差し指に瑪瑙の指輪をはめている姿を描いています。
シェイクスピアが4歳の時にジョンは町長になり、11歳の時には庭園と果樹園付きの家を一度に2軒購入しました。
翌年には、紳士階級になると決意したジョンは、紋章申請をしたほどの勢いでした。
一方シェイクスピア自身は、「グラマー・スクール(キングズ・ニュー・スクール)」に入学前から、聖書とオーヴィッドの『変身譚』の一部を暗記するほど優秀でした。
言葉が持つ力と空虚さを、会得していたといわれています。
父の没落
しかし、ジョンは紋章の申請を中断します。
大聖職者委員会が設置され、旧教の信者だったジョウンは、日本の隠れキリシタンのような生活を余儀なくされたのです。
もちろん、町長も失職し議会にも行かなくなり、生活も苦しくなりました。
13歳のシェイクスピアには理解できず、心から傷ついたようです。
15歳の時には、妹と2人の弟を亡くしました。
この時の心に芽生えた感情は、『ハムレット』や『冬物語』などで語っています。
シェイクスピアの結婚と失踪
15歳のシェイクスピアは、学校を卒業し家庭教師の仕事をしていたようです。
18歳のころに8歳年上のアン・ハサウェイを妊娠させてしまい結婚しています。
父は没落し、自分の妻と3人の子供を含む11人の大家族の面倒を見なければならなかったシェイクスピアは、20歳の時に突然姿を消してしまいます。
・重圧に耐えられなく行方をくらました
・欠員のでた劇団に入団した後にロンドンに行った
という説があります。
行方をくらました時期は「シェイクスピアの失われた年月」と呼ばれており、7年間の記録は何も残っておらず、どこで何をしていたかは不明です。
作家として活躍するシェイクスピア
詩人となっていたシェイクスピア
29歳になったシェイクスピアは、ロンドンで詩人になっていました。
1593年に刊行した詩集『ヴィーナスとアドーニス』は、詩人としてのパトロンだったヘンリー・リズリー伯爵へ捧げられました。
田舎者のシェイクスピアが、どこでどう貴族と付き合うようになったかは残念ながら不明です。
蒸発したシェイクスピアと有名人のシェイクスピアは別人だとの声もあったようです。
シェイクスピアは、宮内大臣一座の設立メンバーで、このころには代表者になっていました。
伯爵のお抱え詩人であり、一座の座付き作家兼役者として活躍していたのだから、かなりの出世ですね。
長男の死
『リチャード三世』などの作品を次々と生み、『間違いの喜劇』の上演で人気作家となったころ、名作『ソネット』も書き始めていました。
ノリに乗っているシェイクスピアに、突然訃報が届きます。
11歳だった長男ハムネットが亡くなったのです。
カトリック(旧教)のお葬式は盛大でしたが、プロテスタントの葬儀はシンプルでした。
息子を亡くした悲しみとあっけない葬儀に傷ついたシェイクスピアは、『ハムレット』のオフィーリアの葬儀のシーンに、「葬儀はこれだけか」と無念の言葉をレアーティーズに繰り返させることで表現しています。
財を成すシェイクスピア
ロンドンから家族のもとに帰ったシェイクスピアは、父ジョンが断念した紋章申請を行い堂々と紳士階級を獲得しています。
『ベニスの商人』など初期作品を書いていたころのシェイクスピアは、地元の名士となり、故郷で2番目に大きな家を買い、家族を住まわせました。
財を得たのはあくまで劇団幹部としての報酬やパトロンがついていたからでした。
グローブ座の誕生
宮内大臣一座は地主とのトラブルで使えなくなったシアター座を解体し、その材木でロンドン近郊に新しい劇場を造りました。
これがグローブ座で、こけら落しは『ジュリアス・シーザー』でした。
(ベン・ジョンソンの『気質なおし』(Every Man out of His Humour)という説もあります。)
グローブ座はシアター座よりロンドンに近いこともあり客入りもよかったようです。
シェイクスピアの晩年
引退を考えるシェイクスピア
その後『お気に召すまま』や『ハムレット』などを執筆しているころ、父ジョンが亡くなりました。
このころからシェイクスピアは引退を考えており、故郷で暮らしたいと大きな家を購入しました。
ジェイムズ朝が起こった時、宮内大臣一座は、王立一座に格上げされます。
人気者のシェイクスピアは、執筆も順調で引退するどころか、四大悲劇を書き上げました。
1611年に断筆を決意して『テンペスト』を書きました。
しかし、後任者に頼られ、なかなか引退はできませんでした。
グローブ座の消失と引退生活
1613年に、グローブ座が火事で焼け落ちたのです。
シェイクスピアは、劇団の一切の権利を整理して、今が潮時と故郷に帰りました。
その後、グローブ座は立派に再建されています。
1616年に病気にかかっていたとされるシェイクスピアは、遺言書を書いています。
父の死が近いと知っていたのか、娘のジューディスは慌ててトマス・クワイニーと結婚をしました。
しかし、クワイニーは他の女性を妊娠させており、罪人として法廷に召喚されました。
彼の裏切り行為が、シェイクスピアの命を縮めたといわれています。
遺言書からクワイニーの名前を削除した一ヶ月後の1616年4月23日に、シェイクスピアは52歳の人生を閉じました。
残念ながら死因は分かっていません。
きょうのまとめ
シェイクスピアについて、いかがでしたでしょうか。
シェイクスピアとは?
➀ 幼少期から語学に秀でていた
② 「シェイクスピアの失われた年月」と呼ばれる失踪の時期がある
③ 伯爵のお抱え詩人と劇団の代表として華々しい活躍をする
④ グローブ座の火事を期に引退
⑤ 娘婿の裏切りで命を縮めたと言われているが死因は不明
その他の記事についてもシェイクスピアにまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」
コメントを残す