ラムセス2世とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

古代エジプトの第19王朝時代。

後に最大のファラオとも言われるようになった人物、

ラムセス2世

90歳前後と言う当時では驚異的なまでに長生きをした彼は、約66年の統治の中で現代にも伝わる業績を遺しています。

ラムセス2世とは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回はその生涯について、主な功績やエピソードと共に見ていきましょう。

 

ラムセス2世はどんな人?

プロフィール
ラムセス2世

アブ・シンベルにあるラムセス2世の像
出典:Wikipedia

  • 出身地:エジプト
  • 生年月日:紀元前1314年~紀元前1302年
  • 死亡年月日:紀元前1224年~紀元前1212年(享年 90歳前後)
  • エジプト第19王朝のファラオ。古代エジプト最大の王。

 

ラムセス2世 年表

年表

紀元前(年齢)

1314年~1302年(0歳)古代エジプト第19王朝の2代目ファラオ、セティ1世の息子として誕生。

1279年?(24歳前後)父王と約3年間の共同統治の末、父の死後3代目のファラオに即位。

1274年?(29歳)統治開始から5年後、中東に遠征。小国の帰属を巡るヒッタイト帝国との戦い。

1271年?(32歳)ガリラヤ(現在のイスラエル北部とヨルダンの一部)に遠征。

1258年?(45歳)ヒッタイト帝国と平和条約を締結し休戦。ヒッタイトから王妃を迎える。

1224年~1212年(90歳前後)崩御。

紀元後1881年 ミイラが発見される。

 

ラムセス2世の生涯

ここからは早速、ラムセス2世の生涯について辿っていきましょう。

第19王朝3代目のファラオ


ラムセス2世が誕生したのは、新王国時代の紀元前14世紀後半

混乱の時代を乗り越え、繁栄を迎えた古代エジプト第18王朝から王権を引き継ぎ、時代は第19王朝へと移り変わっていました。

この第19王朝の初代ファラオが、ラムセス2世の祖父にあたるラムセス1世でした。

つまりラムセス2世は、第19王朝3代目のファラオになったわけです。

彼は成人後、少なくとも3年の間父である2代目ファラオのセティ1世と共に共同統治を行っています。

一説では、父親が外交や遠征を。

ラムセス2世は主に内政を担当していました。

紀元前の出来事であるため、その正確な年号をお伝えするのは困難ですが、ラムセス2世が正式なファラオとして即位したのは彼が24歳を迎えた前後だと言われています。

先王セティ1世の死後に即位したラムセス2世は、そこから歴史に名を遺す偉業によって、エジプトを強国へと導いていくのでした。

海外遠征


ラムセス2世の統治開始から5年後。

彼は中東に向けての遠征を行っています。

当時の中東地域は先の時代の混乱期によっていくつもの小国に分かれ、台頭する国々との間で帰属を巡って振り回されていました。

ラムセス2世が遠征を行った理由のひとつも、まさにかつて奪われたエジプトの領地を取り戻すためでした。

そしてもうひとつの重要な理由が、ヒッタイト帝国に対抗するため。

ヒッタイト帝国は、現在のトルコ周辺で高度な製鉄技術によって繁栄した国です。

その圧倒的な鉄の技術によって当時としては最新で最強の武器や戦車を生み出し、それを文字通り武器にしてオリエント地域一帯を制覇する勢いを見せていました。

ラムセス2世はこのヒッタイトとの間で小国の帰属を巡り、以降15年に渡る争いを繰り広げることになります。

史上初の平和条約

アブ・シンベル神殿にあるカデシュの戦いでのラムセス2世
出典:Wikipedia

ヒッタイトとの争いにおいて特に有名なのが、そのきっかけにもなった「カデシュの戦い」

それは、ラムセス2世が当時ヒッタイトに帰属していた小国アムルを降伏させ、エジプトに帰属させたことから始まりました。

当然アムルを奪還しようとするヒッタイトがエジプトに向けて軍を出し、両国は衝突。

その場所が現在のシリア、カデシュでした。

この戦いでラムセス2世は、ヒッタイト側の情報操作による罠にはまり、窮地に立たされることになります。

主力部隊がそれぞれ離れた場所に配置されていたときに、ヒッタイトに奇襲攻撃されたのです。

この奇襲によってエジプト側は甚大な被害を被り、ラムセス2世も孤立無援状態に。

しかし彼はなんと、ヒッタイトの軍勢にたった一人で立ち向かい弓や剣で対抗。

味方の援軍が来るまでの間を持ち堪えたのです。

日暮れ近くまで続いた激しい戦闘の末、両軍共に疲弊。

翌日、休戦協定を結んでこの争いはひとまず幕を引きます。

さらにその後も度々両者は戦闘を繰り広げますが、先述した通り15年後に平和条約を締結

ラムセス2世がヒッタイトの王女を妃に迎えることで、両国は同盟を結ぶことになったのです。

ちなみにこの条約を記した粘土板は現存(イスタンブール考古学博物館蔵)しており、世界で史上初の平和条約と言われています。

古の時より、エジプトの偉大なる主とヒッタイトの偉大なる王に関し、神々は条約によってそれらの間に戦争を起こさせなかった。ところが、我が兄、ヒッタイトの偉大なる王、ムワタリの時代、エジプトの偉大な主と戦ったが、しかし、今日この日より、見よ、ヒッタイトの偉大なる王、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラー神とセト神が作った、恒久的に戦いを起こさせないための条約に同意する。――我々の平和と友好関係は永久に守られるであろう。――ヒッタイトの子とその子孫は偉大なる主の子とその子孫の間も平和であろう。なぜなら、彼らも平和と友好関係を守って生きるからである。

こうして、ラムセス2世はヒッタイト帝国との強力な同盟関係を築き、台頭する他の国々との争いに備えたのでした。

建設事業

海外遠征やヒッタイト帝国との同盟によって、着実にエジプトの勢力を拡大していったラムセス2世。

彼はその他の功績として、数々の神殿や記念碑を建設したことが知られています。

・ヒッタイト帝国との平和的な終戦を、エジプト側の勝利として知らせる記念碑を各地に建設

・首都をテーベからベル・ラメセスへ遷都

等々。

特に有名な建築物として挙げられるのが、アブシンベル神殿です。

この神殿は「世界遺産」という概念を生み出すきっかけになった重要な遺跡でもあります。

時を経て紀元後の1960年代。

アブシンベル神殿の周辺一帯にダムを建設することになりました。

そしてこの神殿の移設が行われる際、過去の優れた遺跡を守り伝えようとする考えが共通意識にのぼり、現在の世界遺産機構を誕生させたのです。

そういった意味でラムセス2世は、その死後においても大きな功績を遺した人物だと言うことができます。

 

ラムセス2世にまつわるエピソードや伝説

ここではラムセス2世の人物像に迫った伝説をご紹介します。

恵まれた身体

40台前後で亡くなる人が多かった古代と言う時代に、90歳前後で亡くなったラムセス2世。

それだけでも驚きですが、彼は発見されたミイラから恵まれた身体を持っていたことが判明しています。

平均身長が160㎝~165㎝という時代に、推定された身長は183㎝

長身で強靭な肉体と健康に恵まれていたからこそ、カデシュの戦いにおいても一人でヒッタイトの軍勢相手に時間稼ぎができたのかもしれません。

実際に、物理的に彼にしか扱えない強弓が存在したと言われています。

長寿故に・・・

長身で長寿を全うしたラムセス2世。

そんな彼は遺した子供の数も桁違いなのです。

養子も合わせると、その数なんと180人

全員が実子という説もあります。

これだけ子供が多くいたとなると、懸念されるのが後継者問題。

しかし彼の場合は、自分の死以前に多くの子供たちの死を目の当たりにしなければなりませんでした。

後継者に選んだ息子には相次いで先立たれ、最終的に後を継いだメルエンプタハが即位したのは60代という、これまた当時では異例の高齢でした。

子沢山に伴い妃や側室の数も多かったラムセス2世ですが、愛情深い人物としても知られており、

・妃のために神殿を立てる

・妃の一人が亡くなった際には彼女を称える言葉を遺す

など、一人の人間らしい姿も今に伝えています。

 

きょうのまとめ

今回は、古代エジプト最大のファラオと言われるラムセス2世について一緒に見てきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ラムセス2世とはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 新王国時代、古代エジプト第19王朝の3代目ファラオ。

② ヒッタイト帝国との同盟は史上初の平和条約である。

③ 長身長寿で文武両道に秀で、古代エジプトの最盛期を築いた。

功績だけでなく、人物自体にも魅力が詰まっているラムセス2世。

古代エジプトの複雑な世界の入り口として、彼の活躍した時代から探ってみるのも面白いですね。

 
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