フビライハン。
日本では元寇時の元朝皇帝として有名です。
モンゴルのほこり高い“蒼き狼(あおきおおかみ※)”の子孫。
(※)モンゴル民族は蒼いオオカミの子孫だという伝説があります。
その大いなる野望と苦悩の人生をふり返りましょう。
「じっちゃん(チンギスハン)の立てた大帝国を生まれ変わらせるはこの私だ!」
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フビライハンはどんな人
- 出身地:不明
- 生年月日:1215年9月23日
- 死亡年月日:1294年2月18日(享年78才)
- 元朝初代皇帝
フビライハンの年表
1215年(0才)フビライハン生まれる
1253年(38才)大理国を降伏させる
1259年(44才)兄モンケ亡くなる
1264年(49才)モンゴル帝国の単独皇帝となる
1271年(56才)「元」成る
1274年(59才)文永の役
1276年(61才)南宋を滅ぼす
1281年(66才)弘安の役
1286年(70才)嫡子チンキム亡くなる
1287年(72才)パガン朝を滅ぼす
1294年(78才)フビライハン亡くなる
フビライハン即位
フビライハンはモンゴル帝国を築いたチンギスハンの孫です。
フビライの父トルイの跡を長男のモンケが継ぎました。
モンケはフビライの動きを警戒し、フビライの対南宋(当時、中国南部にあった漢人系王朝)総司令官の地位をクビにします。
しかし、間もなくモンケは病死。
その後継ぎをめぐって末の弟アリクブケと争い、勝ったフビライはモンゴル帝国第4代ハン(部族長。モンゴル帝国では国王のこと。)に即位しました。
バラバラになったモンゴル帝国と元の建国
しかし本来、モンゴル帝国のハンというものはクリルタイというモンゴル部族の有力者たちによる会議で選ばれるものです。
武力で無理やりハンになったフビライに対して、「もう言うことを聞けない」と独立するモンゴルの族長たちが現れます。
こうして、チンギスハン以来の帝国はバラバラに。
そこで、フビライハンは今の東アジアを中心とした“元”という国を新たに興すことにしました。
フビライハンの人材はとても国際的
フビライハンの帝国はとても国際的です。
優秀な部下に
●マルコポーロ(イタリア人、ただしモンゴルには来ていなかったという説もあります)
●アフマド(イラン系ウズベキスタン人)
●姚枢(漢人)
など、宗教も出身国も実に様々。
彼らの長所をうまく引き出して運営するのがチンギスハン以来モンゴル帝国のスタイル。
こうして内政を充実。
さらにはその豊かで強い国力でもって周りの国々へと次々に攻め込みます。
フビライハンの侵略事業
日本は文永の役と弘安の役の2回攻め込まれております。
フビライハンの侵略先はさらに中国、東南アジアや樺太(※)まで。
(※)アイヌもたびたび攻撃されております。「北の元寇」と呼ばれております。
●フビライによって滅ぼされた国:高麗の三別抄政権、パガン朝、南宋。
一方でフビライハンの積極的な侵略は失敗もかなりたくさんです。
うち日本には2回、ベトナムには3回も失敗しています。
また、モンケやアリクブケの一族たちによる反乱に悩まされることもありました。
フビライハンの後継ぎとして期待された男たち
フビライハンの後継ぎとして期待された人がおります。
次男のチンキムです。
チンキムにはアフマドというライバルがおります。
アフマドはイスラム系人種で、財務の達人です。
二人はバチバチと勢力争いを繰り広げ、ついにアフマドはチンキム派閥の人たちの陰謀によって暗殺されてしまいました。
あれだけ戦争いっぱい、運河の大工事もやっていたフビライハンの元帝国にあってしっかり財政をうるおしてくれていたアフマド。
チンキムの勢いはますます強くなり、もうだれにも止められません。
ついには「フビライハンを隠居させよう」という声までどこかしらから上がる始末。
しかし、チンキムは“突然”病死。
もう70才のフビライハンは自分にとって、国にとって期待をかけていた後継者たちに相次いで先立たれることとなってしまいました。
フビライハン晩年の元帝国は財政難に苦しみました。
きょうのまとめ
元帝国の栄光はまるでフビライハンの死とともに終わったように思われている節があります。
しかし、実のところ、その跡を継いだテムル(チンキムの三男)が全モンゴルの平和統合をなしとげます。
ただ、このテムルが後継ぎなく亡くなってから壮絶な内部抗争がとどまらなくなってゆきます。
① フビライハンは兄弟たちとの激しい争いを勝ち残り、元帝国のハンとなった
② フビライハンが戦争で得た領地は広いが、一方で失敗した戦争もまた多く、さらにモンゴル帝国自体をバラバラにしてしまった
③ フビライハンは晩年アフマドやチンキムなど有望な後継者たちを次々と失った
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