オリバー・クロムウェルとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

庶民出身の議員として頭角を現し、国王と対立してイギリス初の共和政を実現させた革命家、

オリバー・クロムウェル

その活躍によって国王に弾圧されていた庶民が権限を得ることになるのですが、彼の政治は実は不評でした。

彼は共和政を実現し、一体どんな政治を行ったのでしょうか。

オリバー・クロムウェルはどんな人だったのか、その生涯から彼の人物像に迫っていきます!

 

オリバー・クロムウェルはどんな人?

プロフィール
オリバー・クロムウェル

出典:Wikipedia

  • 出身地:イングランド王国ハンティンドン
  • 生年月日:1599年4月25日
  • 死亡年月日:1658年9月3日(享年 59歳)
  • イギリスの絶対王政をくつがえし、初の共和政へと導いた革命家。プロテスタントたちのリーダーとなり、鉄騎隊を率いて国王軍と戦った

 

オリバー・クロムウェル 年表

年表

西暦(年齢)

1599年(1歳)イングランド東部、ハンティンドンにて地主の家庭に産まれる。

1628年(29歳)庶民院議員となるが、約1年で議会が解散する。

1629年(30歳)ハンティンドンに戻り、治安判事(下級裁判官)となる。

1631年(32歳)セント・アイヴスにて牧場の経営を始める。

1640年(41歳)ケンブリッジ大学から選出され、11年振りに開かれた議会に議会派として参加。絶対王政を支持する王党派と対立し、第一次イングランド内戦へと発展していく。

1642年(43歳)エッジヒルの戦いにて一度は敗戦。寄せ集めの軍隊で国王軍に対抗することの難しさを実感し、プロテスタント系キリスト教徒を中心とした「鉄騎隊」を結成する。

1643年(44歳)ウィンスビーの戦いで国王軍と激突。このときはまだ国王軍優勢に内乱が進められていた。

1644年(45歳)戦況を不利と見た議会派は軍隊の再編成を試みる。悪影響を与えていた指揮官たちは次々排除され、クロムウェルは副司令官の地位に就く。

1645年(46歳)ネイズビーの戦いで国王軍に壊滅的なダメージを与える。敗北を確信した国王のチャールズ1世はスコットランドに亡命するも、見捨てられ議会派の監視下で軟禁される。

1648年(49歳)脱走したチャールズ1世が権力を取り戻すために長老派と手を組み、第二次イングランド内戦を起こす。しかしプレストンの戦いでクロムウェルに鎮圧される。

1649年(50歳)長老派を追放し、チャールズ1世を処刑。イギリス初の共和政を実現させる。これを機に共闘していた平等派も弾圧し始める。

1650年(51歳)反議会派の拠点とされていたアイルランド、スコットランドを侵攻。

1652年(53歳)51年に制定されたクロムウェル航海法が、オランダの中継貿易に影響したことで、第一次英蘭戦争へと発展する。

1653年(54歳)国家最高権力の終身護国卿(ごこくきょう)となる。

1654年(55歳)オランダとウェストミンスター条約、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約を結ぶ。同時にスペインとの英西戦争を開始する。

1655年(56歳)ジャマイカを占領。フランスと和親通商条約を結ぶ。

1658年(59歳)西仏戦争でフランスと共闘し、スペインに勝利。同年、インフルエンザによって生涯を終える。

 

王党派と議会派の対立

国王によるプロテスタント系キリスト教徒の弾圧

1640年当時のイギリスは、国王を主とする絶対王政が行われており、これに反した思想を持っていたプロテスタント系キリスト教徒が弾圧されていました。

国王のチャールズ1世は、プロテスタントが主だったスコットランドを同じように弾圧しようとしますが、これに失敗。

戦争のためのお金が足りなくなったため、議会を招集して国民から税金を集める決定を下そうとします。

しかしプロテスタントを主とする議会派がこれに反対したため、王党派との対立が生まれ、事態は第一次イングランド内戦へと発展していくのです。

このときクロムウェル議会派の一員として議会に参加。

イングランド内戦で鉄騎隊を結成して国王軍と戦います。

イングランド内戦に勝利し共和政の実現へ

第一次イングランド内戦は1645年に部隊の新体制が整うまで、議会派が苦戦を強いられていました。

議会派の支持者は大半が庶民の寄せ集めです。

内戦に参加した兵士も、普段は酒場の給仕や職人をしているような人たちで、精鋭の騎兵を用いる国王軍には適う道理がありませんでした。

徐々に再編成を進めた議会派は1645年になると、それまで機能していなかった指揮官たちを排除し、クロムウェルを副司令官に選びます。

この新体制となった鉄騎隊はニューモデル・アーミーと名付けられました。

そしてこの新体制を利用して、同年6月14日ネイズビーの戦いへと臨みます。

ネイズビーの戦いで議会派は国王軍の隙を突き、部隊に大ダメージを与えました。

これによって国王軍は再建不能の状態となり、敗北を確信したチャールズ1世はスコットランドに亡命。

しかしスコットランドからは受け入れられず、議会派の管理の元、軟禁されます。

1648年にはチャールズ1世が逃走し、王党派と合流。

権力を取り返そうと試みるのですが、結局は処刑され、この後に共和政が実現されることになるのです。

 

庶民のための共和制のはずが反感を買う結果に…

長老派、平等派を弾圧し独裁体制に入っていく

絶対王政は国王がすべての権限を持った政治体制。

いってしまえば、国王の独裁体制だったといえます。

クロムウェルがこれをくつがえし、共和政をもたらしたことで、多くの人は国民が政治に参加できる権限を得られると思っていたことでしょう。

しかし実際のところどうだったのかというと、クロムウェルの政治はそんなに自由なものではなかったのです。

イングランド内戦が終結すると、議会派の中でも長老派と呼ばれる人たちが王政と共和政の妥協を求めてきました。

つまり長老派は「完全に共和政にするんじゃなくて、王室にそれなりに権限が残っていてもいいんじゃないか」といいたかったのでしょう。

しかしクロムウェルはこれを受け入れず、長老派を追放してしまいます。

これはまだわかりますが、続いて庶民が平等に政治に参加する権利を求める平等派をも、弾圧してしまうのです。

クロムウェルのいう共和政は、国民中心ではなく、彼が属していたジェントリという地主階級を中心にした政治でした。

これでは農民や商人など、もっと下の階級の人たちにとっては「話が違う」ということになってしまいます。

結局クロムウェルがやろうとしたことも、絶対王政と同じ独裁体制に変わりはなかったのです。

プロテスタントの信条に基づき、ほとんどの娯楽を禁止する

キリスト教でもプロテスタントというのは、特に清らかであることを求めます。

その信条に基づき、クロムウェルはイギリス国内のほとんどの娯楽を禁止してしまうのです。

禁止された娯楽の例を見ていると、ギャンブル場などはまだわかりますが、劇場などはいたって健全なイメージがあります。

こういった楽しみを奪われた国民の間で、どんどん不満は募っていくのでした。

そうはいえども、クロムウェルが最高権力の護国卿で居続けられたのは、それだけの能力があったからです。

クロムウェルは1658年にインフルエンザにかかると、そのまま病死してしまうのですが、問題はその後。

後を継いだ息子のリチャードには力がなく、結局就任から8か月後には辞任を余儀なくされ、共和政は幕を降ろしてしまうのです。

 

きょうのまとめ

オリバー・クロムウェルはイングランド内戦にて、劣勢と思われた形成を立て直し、見事共和政を実現させました。

それ自体は国民の多くが賞賛に値すると思ったことでしょう。

しかし問題は共和政を実現した後の彼の政治の仕方でした。

記事の内容を簡単にまとめると…

① クロムウェルはイングランド内戦で国王軍に勝利し、共和政を実現させた

② クロムウェルが行った共和政は、結局国民のためのものではなく、地主階級が権利を得るためのものだった

③ プロテスタントの信条に基づき娯楽を禁止したことで、さらに国民の反感を買っていった

国民のことを真に考え、政治に取り組める権力者というのは、今も昔もなかなか現れないものです…。

クロムウェルは死後「裏切り者」と呼ばれ、その首を24年間も、ロンドンにてさらしものにされたといいます。

一時は国民のヒーローにさえなり得たというのに、なんだかやり切れませんね。

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

fifteen − 3 =