幼少期の渋沢栄一に学問を指導したという
尾高惇忠。
維新後は富岡製糸場の場長として、日本の近代化に貢献。
第一国立銀行でも、盛岡・仙台支店の支配人を務めるなど、終生にわたって栄一をサポートし続けた人物です。
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、田辺誠一さんがその役を担当。
栄一に関わる事象も多く、今後も物語の軸を担っていくことが期待されます。
実際はどんな人だったの?
と、気になっている人も多いはずですよね。
その生涯から、尾高惇忠の人物像に迫りましょう。
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尾高惇忠はどんな人?
- 出身地:武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)
- 生年月日:1830年9月13日
- 死亡年月日:1901年1月2日(享年72歳)
- 渋沢栄一の幼少期の師匠。明治維新後、富岡製糸場の場長を務め、日本の産業の隆盛を担った。
尾高惇忠 年表
西暦(年齢)
1830年(1歳)武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)にて、名主・尾高勝五郎の長男として生まれる。
1846年(17歳)自宅にて尾高塾を開く。
1863年(34歳)従弟の渋沢栄一らとともに、尊王攘夷運動に乗じる。高崎城の乗っ取りなどを画策する。
1868年(39歳)戊辰戦争にて、旧幕臣を中心とする「彰義隊」「振武軍」に参加。
1872年(43歳)渋沢栄一に推され、富岡製糸場の初代場長となる。
1877年(48歳)第一国立銀行に入行。盛岡支店・仙台支店の支配人を務める。
1889~90年(60~61歳)『蚕桑長策』『藍作指要』など、藍玉や養蚕に関する書籍を発刊。
1901年(72歳)死没。
村の子弟を育てた尾高塾
1830年、尾高惇忠は武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)にて、尾高勝五郎の長男として生まれます。
母のやへは渋沢栄一の父・市郎衛門の姉にあたり、栄一と惇忠は歳の離れた従兄弟です。
下手計村は栄一の血洗島村のすぐそばにあり、両家はほぼ同じ村内にあるようなものでした。
尾高家は村をまとめる名主の家系。
家業は藍玉や菜種油の製造、販売を行う、農民と商人の両方を兼ねるものでした。
そんな家系に生まれながら学問に長けていた惇忠は、17歳のころから自宅にて「尾高塾」を開塾。
幕末にかけて、村の子弟たちの教育に尽力していきます。
惇忠は
「読書は読みたいと思ったもの、面白そうだと思ったものから読むのがよい」
というような、自由な教育方針を示していました。
この教育方針から、子弟たちは与えられたものをただこなすのではなく、自分の頭で考える力を身につけていったといいます。
渋沢栄一もこの塾で学び、のちに、惇忠からの影響をこのように語っています。
藍香は惇忠の号で、青淵は栄一の号。
惇忠の教えが、栄一の人となりを形作ったということです。
栄一が晩年『論語と算盤』という名著を残していることは有名ですよね。
何を隠そう、栄一が論語を習ったのはこの尾高塾でのこと。
自らの人生訓となるような学びを、惇忠から得ていたのです。
尊王攘夷活動と戊辰戦争
1863年、尾高惇忠は渋沢栄一、渋沢喜作らとともに、尊王攘夷活動を画策しました。
(※尊王攘夷…天皇の名のもとに、外国人を追い払うという思想)
当時、水戸藩を中心に広がっていた尊王攘夷思想。
古事記や日本書紀などを遡り、「天皇の名のもとに日本は守られてきた」とするその思想は水戸学と呼ばれ、尾高塾でも取り上げられていたのです。
惇忠らは
・横浜外国人居留地の焼き討ち
などを画策し、その勢いで倒幕を成そうと考えていました。
しかし、弟・長七郎の説得により、思いとどまることに。
その後、1868年の戊辰戦争では渋沢喜作が幕臣となっていたため、惇忠も旧幕府軍側につきます。
惇忠は喜作を隊長とした「彰義隊」や「振武軍」に参加し、江戸や武蔵国、函館を転戦。
その途中、弟・平九郎の自決などを経験します。
ちなみに妹の尾高千代は栄一の最初の妻で、平九郎はこのとき、ふたりの子として養子になっていました。
栄一はヨーロッパ視察で戦争に参加していないのですが、平九郎の死にはさぞショックを受けたことでしょう。
富岡製糸場での働き
明治維新後、大蔵省に務めていた渋沢栄一に推挙され、惇忠は新設される富岡製糸場の場長となります。
富岡製糸場は明治政府の政策によって、建築が決まったもの。
当時、生糸は日本の輸出物で一番の需要を誇っていましたが、生産が追いついておらず、洋式の機器による大量生産が必要とされたのです。
つまり富岡製糸場は、対外貿易を促し、日本を近代化させる要だったわけです。
そして富岡製糸場の隆盛には、尾高惇忠の活躍が必要不可欠だったといわれています。
和と洋を兼ね合わせた建築様式
富岡製糸場は近代化の方針に乗っ取り、レンガを用いた西洋風の建築が計画されていました。
しかし、惇忠はここであることを懸念します。
「内装まで洋風だと、日本人は働きづらいのではないか」
そのため「外はレンガ造りで中は日本風の木造」という、和と洋を兼ね合わせた建築様式を提案するのです。
ただ、工場の規模を考えると、それはまた大量の木材が必要。
惇忠はその調達のため「妙義山の御神木を使わせてほしい」と、地元民や神社を説得して回りました。
当時の日本はまだ宗教思想が根深く、相当な反発があったという話。
それでも惇忠は熱意をもって説得を続け、最後には「ぜひ使ってくれ」と言われるまでになっていたといいます。
優秀な人材を育て上げた子女教育
工場が出来たとなれば、次に必要となるのは技術者の教育です。
富岡製糸場のミッションは、単に生糸を大量生産することだけではありません。
西洋の機器を扱える技師を育て、全国に指導者を派遣することにこそ、意味があると考えられていました。
これに対し、惇忠は以下のような運営方針を掲げます。
・製糸技法のほかにも、数学や国語のような一般教養を指導
・医療費や食費の免除
・残業なし、土日祝日休みなどの優良な労働条件
これらの方針により、富岡製糸場で働くことは女性の憧れ、エリートコースの象徴となっていきました。
良質な教育を受けた工女たちはやがて指導者として全国に派遣され、その後の日本の養蚕業を支えていくこととなります。
惇忠が施した子女教育は、明治期の一大産業を担うこととなったわけですね。
その功績が称えられ、2014年には富岡製糸場が世界遺産にも登録されています。
工女第一号となった長女・尾高ゆう
富岡製糸場での指導はフランス人技師によって行われており、当初は外国人への抵抗から、工女の応募が振るわなかったという話。
そこに工女第一号として指導を受けることを志願したのが、惇忠の長女・尾高ゆうでした。
彼女が名乗りを挙げたことで、
「外国人は怖くない。日本の女性でも無事に働ける」
という評判が広まり、以後、応募が集まるようになっていったといいます。
きょうのまとめ
渋沢栄一が日本資本主義の父なら、尾高惇忠は稀代の教育者。
幼少期の栄一の教育はもとい、富岡製糸場での教育をとっても、人を育てることが彼の天職であることは紛れもありません。
なにより、晩年まで栄一との関係が続いていることが、その優れた人格を表しているのではないでしょうか。
最後に今回のまとめです。
① 学問に長けていた尾高惇忠は自宅で尾高塾を開き、村の子弟たちを教育していった。渋沢栄一もここで学び、のちの人となりを身につけていく。
② 幕末には従弟の栄一や喜作とともに、尊王攘夷活動を計画。戊辰戦争では幕府側につき、彰義隊や振武軍に加わった。
③ 明治維新後、渋沢栄一の推挙で富岡製糸場の場長を務めた。惇忠の教育で優秀に育った工女たちは、その後全国に技術を広め、日本の産業を担っていった。
誰に教わるか、どんな環境で学ぶか。
これから勉強していこうという私たちは、ぜひ真剣に向き合っていきたいことですね。
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