19世紀ロシアの作曲家、モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー。
「ロシア五人組」と呼ばれる作曲家のうちの一人で、有名な作品には『禿山の一夜』などがあります。
ムソルグスキーとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回は、主な功績を辿りながらその生涯を見ていきましょう。
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ムソルグスキーはどんな人?
- 出身地:ロシア プスコフ
- 生年月日:1839年3月21日
- 死亡年月日:1881年3月28日(享年42歳)
- ロシアの音楽家(作曲、ピアノ演奏)。「ロシア五人組」の内の一人。
ムソルグスキー 年表
西暦(年齢)
1839年(0歳)ロシアのプスコフで地主階級の家系に誕生。
1845年(6歳)母に教わりピアノを弾き始める。
1849年(10歳)家族でサンクトペテルブルクに移住後、エリート養成機関のペトロパヴロフスク学校に入学。ピアノも本格的に習い 、作曲を始める。
1852年(13歳)士官候補生になる。父親の出費でピアノ曲『騎手のポルカ』が出版される。
1858年(19歳)軍から退役し、本格的に音楽家を志す。
1861年(22歳)農奴解放に伴い地主貴族だった一族は打撃を受ける。そのため官吏の職(交通省)に就きながら作曲活動を行い始める。
1863年(24歳)以降3年に渡り、歌劇『サランボー』に取り組む。
1865年(26歳)アルコール依存症の兆しが見え始める。
1867年(28歳)『禿山の一夜』の初稿が完成。『ゴパーク』と『愛しいサーヴィシナ』が初の自費出版作となる。「五人組」の一人としてよばれるようになる。
1871年(32歳)オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の完成。
1874年(35歳)『ボリス・ゴドゥノフ』の初演。アルコール依存症が深刻化する。『展覧会の絵』などを作曲。
1879年(40歳)転職先の内務省の厚意で、3ヵ月間に渡り12都市で伴奏活動を行う。
1880年(41歳)荒んだ生活と体調の不安定から、官吏の職を失う。
1881年(42歳)年明けから4度の心臓発作を繰り返し入院。体調は回復せず3月28日に死去。
ムソルグスキーの生涯
ここからは早速、ムソルグスキーの生涯を主な功績と共にご紹介していきます。
軍人と音楽家
ムソルグスキーは、1839年にロシア帝国のプスコフに誕生します。
彼は、古くから続く地主貴族の家系に生まれた4人兄弟の末っ子でした。
父親は官吏を務める人物で、母からピアノを教わったムソルグスキーは幼少の頃より音楽の才能を見せています。
10歳の時に家族でサンクトペテルブルクへ移住すると、そこで本格的にピアノを習い、作曲も行い始めました。
その一方で、当時のロシア貴族たちの慣習に従い、将来は軍人か官僚になるための教育を受けることになったムソルグスキー。
彼はエリート養成機関と言われる士官学校、ペトロパヴロフスク学校に入学しました。
士官になることを目指したムソルグスキーは、13歳の時に士官候補生になっています。
また、音楽活動に目を向ければ、この時期に後の「ロシア五人組」となるボロディンやキュイ、バラキレフと出会っています。
そしてこの年には、父親の協力によってピアノ曲『騎手のポルカ』の出版にも至っているのです。
一度は軍人としての道を歩み始めたムソルグスキーでしたが、この時期に出会った多くの文化人たちとの交流を経て、19歳で退役を決意。
専業の作曲家として進むことにしたのでした。
「ロシア五人組」
ムソルグスキーを語る際に必ず出てくるのが、「ロシア五人組」というキーワードです。
これは19世紀のロシアでそれぞれ活躍した5人の音楽家たちを指す言葉で、ムソルグスキーの他には、
・キュイ
・コルサコフ
・ボロディン
といった人物たちがいます。
彼らに共通しているのは、周辺諸国の真似ではなく、ロシアの国民性や風土、そして歴史に根差した音楽を作ろうとしたことです。
この様な国民音楽の創造を目指す姿勢から、彼らは国民楽派として位置付けられています。
なかでもムソルグスキーは、
・史実と現実生活
などに注目し、郷土愛、そして同胞愛を胸に創作に取り組みました。
そのことから彼は、ロシアの国民楽派である一方、西洋音楽史的にはロマン派の音楽家に位置付けられているのです。
天才ゆえの苦労
ムソルグスキーの少年時代と「五人組」についておさえたところで、ここでは彼の代表作について見ていきましょう。
まずは、管弦楽曲《禿山の一夜》(1867)です。
ディズニーの名作映画『ファンタジア』でも使用されていることから、一躍有名となりました。
しかし映画で使用されているのは後に交響詩として改作されたもので、原曲は《禿山の聖ヨハネ祭の夜》と言います。
ムソルグスキーが最初にこの作品の構想を練ったのは19歳の頃。
映画と同じく魔物たちの饗宴を音楽で表そうとする試みはその頃から始まりました。
しかし28歳の時に完成したものの、その荒々しさは当時受け入れられず、様々なバージョンで改作や編曲がされたのです。
この曲が広く知られ、また原曲が愛されるようになるのは、彼の死後のことでした。
ふたつ目は、ピアノ組曲《展覧会の絵》(1874)です。
これは最も演奏される機会が多く、皆さんも一度は耳にしたことがあると思われる作品です。
しかしこの作品も、実際に現在でも演奏されているバージョンのほとんどが、ムソルグスキーの死後にラヴェルによって管弦楽として編曲されたものなのです。
他にもオペラや歌曲などを作曲したムソルグスキーですが、実は未完作品が多いことでも有名です。
それでも彼の斬新な作曲技法が後の作曲家たちに与えた影響は大きく、彼の死後、印象主義の作曲家たちに引き継がれることとなりました。
<禿山の一夜>
<展覧会の絵>
アルコール依存症の背景
ここではムソルグスキーについてもう少し掘り下げるために、彼にまつわるエピソードをひとつご紹介します。
1881年、42歳という若さでこの世を去ったムソルグスキーですが、実は長いことアルコール依存症に苦しんでいました。
その背景には、彼の実生活におけるいくつかの苦悩が関係していたのです。
例えば、専業音楽家になって数年後に農奴解放が行われ、地主だったムソルグスキー家は一気に経済難に追い込まれます。
ムソルグスキーは一族のピンチを立て直すために、専業音楽家を諦め交通省に就職しますが、一度エリートコースから外れた彼の給料は微々たるものでした。
他にも、
・友人との別離
などいくつもの別れを経験したことで、彼は次第に孤独を募らせていくことになります。
さらには農民たちなど、いわゆる下層階級の人々の厳しい現実に着目する彼の音楽スタイルも、皮肉なことに自身の神経衰弱に拍車を掛けることとなったのです。
飲酒癖は次第にエスカレートしていき、死の一年前には遂に職場からも追放されてしまいます。
そして1881年に入ってからは、立て続けに4度の心臓発作を発症。
誕生日を迎えた7日後の3月28日に息を引き取りました。
きょうのまとめ
今回は「ロシア五人組」の作曲家ムソルグスキーについて、その生涯を主な功績やエピソードと共に見てきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ムソルグスキーとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀、ロシア帝国の作曲家。
② 国民音楽の創造を目指した「ロシア五人組」の一人。
③ ロシアの現実に目を向け続け、長くアルコール依存症に苦しみ42歳で死去した。
本文でもご紹介した代表作たちは、現在も編曲バージョンと原曲のそれぞれを聴くことができます。
これを機に聴き比べてみるのも面白いかもしれませんね。
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